満員電車哀歌

星井 内定

乗車率197%の迷える子羊

その日も電車は人で満杯だった。僕は今、ドア横で生命の危機に瀕している。


ラッシュ時のJR中央線の快速新宿行は日本ではない。人の波で乗客を窒息させんと荒れ狂うインド洋であり、立つ者が座る者に羨望と慈悲を請うスラム街であり、飯を食べ始める下北沢のおばちゃんや全身から青春の涙(※汗)を漂わせる部活青年、対満員電車決戦兵器であるキャリーバッグを抱えた観光客、ストレス限界なサラリーマンがごった返す銀河さながらのカオスだ。

喧騒と圧力と香ばしい臭気が僕の心を袋叩きにする。煩い。苦しい。臭い。そう叫び出したい気持ちを必死に堪えていると、そのうち叫ぶ気力も無くなってきた。

またドア横というポジショニングも判断ミスだった。ドアが開くたび、駅と車内の両方から追撃される。いっそ人の圧に身体を預けてしまえば楽なのだが、痴漢と疑われても困るので、僕は片手で必死に手すりを握り、反対の手でスマホを見ているふりをする。画面にキスできる距離では何も読めるはずがない。


これほど恐ろしい空間だと知らなかった。僕のようなひ弱な人間が来るべきところではなかったのだと、今さらになって後悔が溢れてくる。薄れゆく意識の中で、薄汚い大男に囲まれ、強姦されている自分を幻視した。男たちの男根は電車の車両で、絶頂と共に中に詰まった乗客という精子を僕の顔に吐きだす。そういうものだ。

僕は停車駅を確認する。しかし目的の駅はまだ5駅も先だった。神は死んだ。ニーチェは正しかった、そう思った。


仕方がないので、僕は目を瞑り、ここではないどこかに逃避することにした。密集と熱狂。外国人観光客のエキゾチックな体臭。耳に残る駅メロや足元の車輪から響く重いビート。そう、ここはカーニヴァルの中なのだ。

カーニヴァルは謝肉祭とも訳される、カトリックの文化だ。灰の水曜日から聖人の復活の前日までの40日間、食事の節制と祝宴の自粛を行う四旬節。その前日、告解火曜日に行うどんちゃん騒ぎがカーニヴァルの由来である。

満員電車の神は死んだ。地上は荒廃し、人々は出口の見えない満員電車の刑に処されてしまった。だが、我々はこの絶望的なカーニヴァルを絶えず演じ続けることで、聖人の復活を願っているのかもしれない。動けない車内で天を仰ぎ、祈りを捧げ続けているのかもしれない。


神の御子、すなわちマイカー通勤が降臨なさるその日まで。

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満員電車哀歌 星井 内定 @tensyoku_suruda

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