エピローグ
薬っぽい匂い。
糊の効いたシーツの感触。
目を開けると白塗りの天井。
賃貸事務所の二階じゃない。
「あ、気がつきましたか」
茶髪の小柄な看護婦には見憶えがある。
第一東西病院。
「だいいちひがしにしびょういん」と読むその病院名は捻くれた医院長のセンスの賜物だ。
──やあ、シリンジさん、だったよな?
茶髪の看護婦は持っていたクリップボードをお手玉した挙句に床に落とした。
「え"っ、あのっ、はい。紫林路です」
──確か下の名前は……ヒカリ。ヒカリさんだ。合ってるよな。
「ああああああああってます。紫林路ヒカリ、紫林路ヒカリでございます」
──落ち着いて。選挙カーみたいになってるぞ。今日はドクターは? 不在か?
「ドクターは、感染症予防についての会合がりまして──」
──えっ。マジか! やったあ! じゃあ今回は鬱陶しいことこの上ないやりとり無しに普通に退院……。
「やあ七篠くん。気分はどうだい?」
──いるのかよ!!!
「君が担ぎ込まれたと聞いてね。全ての予定をキャンセルして全力ダッシュで帰って来たよ。お陰で両足とも酷い筋肉痛さ」
──交通機関使えよ。
「今回も一通り検査した」
──で、どうだったんだ?
「どうだったと思う?」
──うっざ。合コン慣れした三十路のOLかお前は。
「合コン慣れした三十路のOLが知り合いにいるのかい?」
──いやいないけど。なんか言いそうだろそういうの。
「憶測で誰かを貶めるのは良くないな。藁人形論法じゃないか。今の時代はそういう所への配慮の雑さが、すぐに炎上の原因になるんだ。気をつけたまえ」
──……そう言われると、軽率だったかも知れん。すまん。
「まあ僕の知り合いの合コン慣れした三十路OLは本当になんでも質問で返してくるけど」
──殴りてー。あー、殴りてーなー。けど殴ったら次に担ぎ込まれた時、俺の意識がない間に勝手に色々ひでえことするんだろーなー。
「なんなんだろうね。あの合コン慣れした三十路OLの独特の会話のノリは。マニュアルでもあるんだろうか」
──知らねえよ。それ三十路のマニュアルか? OLのマニュアルか? それとも合コンのマニュアルか?
「さあ? 君は何かい? 僕がそこまで深く考えて何かを喋ってると思うのかい?」
──ドクターってよく社会生活できてんな。今まで誰かを致命的に怒らせたこととかないの?
「検査の結果は特に問題ないよ。打身と打撲が何箇所かあるけど、薬を出すほどでもないだろう。診療費はいつも通り財布から抜いて、スマホにはうちと契約のあるQRコード決済のアプリを入れてアカウントを作っておいた。IDはナナゴン775。ローマ字でNANAGON、数字で7・7・5だ。パスワードは745b745b。次回からはQRコード決済したいから、常に二、三百クルークはチャージしといてくれ」
──勝手にもほどがあるし、地味にテクノロジー導入してんじゃねえ。
「病院食クーポンもQR決済の割引と一本化してあるから、窓口で一喝決済可能だ」
──へえ、便利だな、とでも言うと思うか? お前んとこの得体の知れない病院食なんて絶対食べないからな。何が入ってるか分かったもんじゃない。
「ま、否定はしないよ」
──しろよ。
「とにかく会計は済んでるから、適当に休んだら帰っていいよ」
──へいへい。
ニコニコ顔でひらひらと手を振ってドクターは出て行った。
── 一連のこのくだり、いる?
そこにドタバタと足音がして叫び声が近づいて来た。
「探偵長ォォォォォォォォォォォォッッッ!!!」
ばんっ、と扉が開くと、急停止の余波でポニテの髪束をぐるんぐるん回す女子大生が肩で息をしながら立っている。
七篠名前捜索事務所の唯一の正規スタッフ。橘アズサだ。
「大丈夫ですか探偵長、五体満足ですか⁉︎ 一体ないがしろにしてませんか⁉︎ 不満足と回答した方は自由記述で不満な点をお書きになりますか⁉︎ 五体満足の場合はこの際だから六体でも七体でも──」
──どうどうどう。落ち着けアズサ。
「痛い所はないですか⁉︎ 痒い所はないですか⁉︎ ペインレスですか⁉︎ えっと痒い……ああっ、痒いの英語が分からない……!」
──大丈夫。大丈夫だアズサ。誰も「痛くも痒くもない」を英訳してほしいとは思ってないから。
「申し訳ありませェェェん探偵長ォッ! こんなことなら第二外国語も英語にしとくんでしたァァァッッッ!!?」
──俺、高卒だからよくわかんないけど第二外国語も英語とかできんの?
「あ。うちの大学はできるんですよ」
──あ。そうなんだ。ゴメンね、なんか途中で。
「続けますね。
今回もまたっ、私めがっ、私めが人質に……っ! しかも敵に利用されてこの街を危機に……っ!!!」
──まあ、お前のせいじゃねえよ。あの場には俺もネモもいて、お前が連れて行かれるのを防げなかった。お前を守れなかったんだから。すまなかったな。
「探偵長ォォォォッッッ!!!」
──分かった分かった。
「医者は行ったようね」
──珍しいなネモ。いつもの姿でドアから入って来るなんて。
「今回はお客様同伴なんだもの。さ、入って」
ネモに続いて入って来たのは、護り屋と監視屋だった。
「よう名前探し屋。顔色はいいな」
──お陰さんでね。
「これは見舞いだ。俺たち二人からのな」
サイドテーブルにドンッとフライドチキンのパーティーバーレルが置かれる。
「みんなで食べてくれ」
──そっちのアズサさんは? 無事か?
「お陰さんでな。そこの嬢ちゃんと違ってまだ朦朧としてるが、少し休めば元どおりだろう」
──……あいつは?
「仮面の女か? 逃げられた。あいつタダモンじゃねーな。自分で言うのもなんだが、俺と監視屋が組んで相手して、こんなに鮮やかに逃げられたのは初めてだ」
──そうか。手間掛けたな。
「お互い様さ。猫の美人さんに連絡先は渡しておいた。何かあったら連絡くれ。護りの仕事なら割引で請け負うぜ」
──覚えておくよ。
「じゃあな。七篠権兵衛。不思議な街の名前捜索人。縁があったらまた会おう」
──ああ。ありがとうよ。護り屋ヒロマル 。監視屋ときお。元気でな。
「待って」
去ろうとする二人の客人を、ネモが呼び止めた。
「監視屋ときおさん、だったわね。あなたの使役してるメマメに付いて最後に一つ確認したいの」
監視屋は立ち止まり、肩越しに視線だけをこちらに寄越す。
「あれは…………ヒトね?」
「……ひひひ」
監視屋は笑った。
「あなたは苦手なタイプ。二度と会いたくないわ」
「つれなイね魔女さん。ヒひ」
それだけ言うと監視屋も出ていった。
ネモは軽く溜息をついた。
「今回も大変だったわね。逆さまの福の仮面の女。レインボーメイカー。正体さえ分かれば、生まれて来たことを後悔するほどの苦しみと痛みをプレゼントしてあげるのに」
──レインボーメイカー。俺には少し、あいつの正体が見えて来たぜ。
「本当に? 誰なの? あのいけすかないトリックスターは」
──あいつは残り火だ。銀の星の。
「残り火?」
──恐らく。俺はあいつの大事な人を
俺は少し俯くと、短く言った。
──殺してる。
---------------
俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。
この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。
探偵のようなものと考えてくれればいい。
最近ではネームハンター、なんて横文字で呼ぶ奴もいる。
「にゃー」
……分かってるよ。
こいつは相棒の黒猫。
名前はネモ。
色々あって俺はこいつの言葉が解る。こいつ、見た目通りの只の猫じゃねえんだ。
俺の仕事は失くした名前を探すこと。
この街じゃ、何時の頃からか名前が人や物から抜け出してどこかに散歩するようになっちまった。
俺は憐れな依頼人の失くした名前を見つけ出して、元通り人に名乗れるようにしてやるってわけさ。
【カランコロンカラン♬】
さぁて仕事か。
今日も危険でクールな一日が両手拡げてウィンクしながら俺を迎えに来たぜ。
ネームハンター9 〜 The crossload jam session 〜
〜〜〜 f i n 〜〜〜
ネームハンター9 〜 The crossload jam session 〜 木船田ヒロマル @hiromaru712
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