そうして彼女を誘いました。

 彼女を守るように壁中に張り巡らされていた茨と、その上で咲いていた青い薔薇ばらが、光の粒に覆われて、そしてそれらも粒になり、消えていく。

 精霊の気配が立ち去るのを感じて、薔薇が本当に、完全に消えて、いばらが解放されたことを悟る。


 ごめん、俺の、俺たちの勝手な思いで、こんな風に巻き込んで、咲かせてしまって。


 心の中で小さく謝ってから、近くにいるはずの彼女を振り向き、ギョッとした。


 彼女の頬を、透明な線を描いて涙が零れ落ちていく。


 目をそらそうと思った。


 でも、それよりも。

 そらせば消えてしまいそうな、そんな儚い雰囲気があって。

 気づいたら俺は、涙を拭おうと手を伸ばしていた。


 だけどその手の進む道を塞ぐように、彼女は俺の手首を握った。


「大丈夫ですから」

「……すみません」


 静かな拒絶に、俺は大人しく手を下げる。

 そして、一度彼女に背を向ける。


「……博貴ひろきは、元気ですか?」


 少しの間を開けてから、彼女は俺に話しかけてくる。

「元気ですよ。毎日毎日花人病について調べています。本もいくつか出していて、その業界じゃすごく注目されています。ただ、集中すると寝食を忘れちゃうところがあって、俺もご両親も見張っていないと倒れるまでやっちゃうんですよね。一応見張りは頼んできたので大丈夫だとは思うんですけども」

「そう」

 静かな声。

 短い言葉だけど、振り向いてみれば、彼女は小さく微笑んでいた。

 それだけなのに、少し安心する自分がいる。

 よかった、と。

 彼女のことも、少しは解放できたのかな、と。


「来ないんですか、一緒に」


 彼女は、瞼を閉じて首を横に振る。


「だって、もうここには、あなたを縛る人は、誰もいないんですよ」

「……博貴に、迷惑をかける訳にはいきませんから」

 その言葉に、俺は小さくため息をこぼす。


 ここで終わらせるわけにはいかないから。


 花人病の研究を進めることに、いい顔をする人ばかりではない。

 嫌な顔をする人も、暴言を吐いたり、嫌がらせをする人だっていた。

 その度に俺も、俺と博貴の両親も、彼に研究を辞めるように言った。

 だけど、彼は決まってそう言うのだ。


 ここで辞めるわけにはいかない。

 辞めたら、死んだときに、お姉ちゃんになにも言えないから。

 謝られたときに、大丈夫だよ、としか返せないから。


 いつも、キラキラとした薄墨色の瞳で、悲しげな色を押し隠して博貴はそう言うのだ。


「花人病は」


 呟きに、彼女を見る。

 彼女はじっと、薔薇があった壁を見つめている。


「彼の……りょうのためのもの、だったんですね」

「……よかった、と、思いますか?」


 俺の質問に、彼女はすぐに首を横に振る。

「了に生きてほしい、という思いだけの病。それでいろんな人の人生がぐちゃぐちゃにされました。そんなのよりも、きっと、了は二人と一緒に生きてたかったと思うんです。……あくまで私の予想でしかありませんが」

「じゃあ、兄の両親のことをあまりよく思わない、と?」

 気になって聞けば、少し困ったように彼女は眉尻を下げる。

「個人的な思いだと。でも、両親だけが悪いわけじゃない。吸血鬼狩りをした人間も、そのきっかけを作った吸血鬼も、悪いんです。個人がやったことに対して、種族が悪い、なんてことをしたから、それで潰してしまったから。……人間に、吸血鬼の花人並の優遇がされていない辺り、やっぱり二人なりの復讐も、あったと思いますよ。無意識か、意識してかは、分からないですけれど」


 彼女は歩き始める。壁の前で止まると、そっと手を当てる。


 しばらく瞼を閉じて俯いていたと思えば、ぽつり、彼女はなにかを呟く。

 聞こえなくて、え、と聞き返せば、彼女は顔を上げて俺を見た。


「どこからやり直したら、こんなことにならずに済んだと思いますか?」


 それは、お互いにとって酷な質問だった。

 俺は、言葉に詰まる。

 彼女は小さく笑う。

 泣き声を押し殺したような、笑い声。


「いくつも浮かぶんです。もう少し了に踏み込んでいたら。あのとき、了といばらに、私もついていってたら。あのとき、もう少し……」

 数えるように、唄うように、淡々と紡いでいく。

 その声はまるで、茨や蔦のようだ。

「了の花、ローダンセ、なんです」

「……キク科、ギリシア語の、薔薇と花が語源となった花ですよね。花言葉は、変わらない思い」

「どんな思いを、ずっと抱いていたのかなって。……消えてしまった今となっては、知る術はなにもないんですけども」


 悲しげな表情で、呟く。

 どうしたらよかったのか、なんて、今考えたって仕方ない。

 頭ではわかっていても、心は納得してくれない。


 でも、俺たちの時間も、彼女の時間だって、有限だ。

 生きている限りは、有限なんだ。


沙也加さやかさん。あなたはこれから、なにをしたいんですか?」


 彼女は一度瞬きをゆっくりとしてから、そっと天井を見つめる。

 きっと、これから、なんて考えたこともなかったのだろう。


「俺は、人間と吸血鬼が一緒に暮らせる国に戻したいです。そのためにも、俺は花人病について知ろうとしています。花人一人一人についても。人間と吸血鬼の間にあった事件の結果としてできた人と病だから。これを紐解けば、きっと、なにか変わると思うんです。だから」


 一度言葉を切る。


 彼女はこちらを見て、こてん、と首を傾げる。

 サラッと流れる黒髪からはきっと、花の香りがするのだろう。……彼女自身以外、もう誰も、その香りを感じる人は、いないのだけれども。


「俺と一緒に、人間と吸血鬼が共存できる、そんな国を、取り戻してくれませんか?」


 彼女は、少し考えるように俯いてから、もう一度顔を上げる。

 そして、いたずらっぽく微笑む。


「あなたがこの土地の花人を解放できたら、お返事しますね」

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