この話を知ったとき、兄はそんなことしないと、思いたかった。

 上がってくる意識と共に、ゆっくりと目を覚ます。


 明るい部屋は、どことなく冷たい。

 見覚えのある部屋。

 いつ見たか。……そうだ、あの夜に見た、地下室だ。


 どうして私はここに……?


 そっとそっと記憶を手繰り寄せる。


 隣の……そう、かおるさんとりょうくんがいるクラスとの合同授業で、忘れ物を取りに行くために、教室まで四人で移動していたはず。

 それで、なにが……。


 ピリッと頭が痛む。

 思い出した。


 突然苦しくなって、それで、私は沙也加さやかちゃんに襲い掛かったんだ。

 小さな痛みはきっと、薬を刺された痛み。

 すぐに意識を失ったから、大丈夫、誰のことも吸ってはいない。


 それだけの事実が、守りたい人を襲いかけた絶望に、少しだけ安心感を与える。


 でも、どうして地下室にいれられたんだろう。

 薬の効果が切れたのは、たぶん今だ。だけど、正気は失っていない。はず。

 わけがわからない。

 とりあえず立ち上がろう。

 そう思って……そのときになって初めて、自分が拘束されていることに気づいた。

 手を動かせば、みしりと軋むような感触。視線だけ下に動かす。足は紐で拘束されているから、恐らく、手首も同じように結ばれている。


「起きた?」


 聞き覚えのある声にハッと顔を上げれば、焦げ茶色の瞳とばっちり目が合う。

「了くん……?」

 呼びかければ、彼はしゃがむ。

 距離が、縮む。


 どうして彼は拘束されていないんだろう。

 私は拘束されているのに。


 もしかして、拘束を自力で解いたんだろうか。

「ね、部屋の中、よく見た?」

 部屋の中?

 どうしてそんなことを訊くんだろう。

 不思議に思っていたら、よっと声を上げて、了くんが私の上半身の下に腕を入れて起こす。

 目に入ったそれに、私は、ひっと喉を引きつらせる。


 そこには、五人ほどの人間が倒れていた。

 まるで荷物のように、乱雑に転がされているようにも見える。


 まさか、私と了くんだけ、誘拐犯に捕まったのだろうか。

 それとも……沙也加ちゃんも薫さんも捕まって、私たちよりも先に吸われ尽して、枯れてしまったんだろうか。


 一瞬で血の気が引いていく。

 いやでも、それなら犯人は? どうしていないの?

 もしかして、今は外にいるとか? でも、ここに入れば、出ていけない。

 ドアが閉まらなければいいのだから、間に靴とか、なにか挟んでおけば、出れるのかもしれないけれど。

 今はそのドアは固く閉じていて、少なくとも私たちは逃げられないのだと悟る。

「了くん、私たち、どうしてここに……?」

「まだ、わからないんだ?」

 引っ掛かりを覚えて、うしろにいる了くんを振り返り……即座にそれを後悔した。

 彼の口角は、にんまりと、あの日見た三日月のような弧を描いていた。

「……嘘だよね?」

 クツクツと笑い声が響く。

 彼は答えない。でも、その笑い声だけで、充分だった。


 逃げないと。


 本能はそう叫ぶのに、身体は動かない。

 だって、逃げられるはずがない。しまったドアは、開くはずがないということを知っているから。

 それに、拘束されているこの状態では、どう頑張ったって逃げられない。

「沙也加ちゃんと、薫さんは……?」

「無事だよ。まだ、僕らがここにいるってこと、知らないんじゃないのかな。君を部屋に送るって言ってきたし」

 二人は無事なんだ。

 少しだけ、安心する。


「自分のことは、いいわけ?」

 そうだった。

 いいはずがない。

 断じて、いいはずがない。

「……私の血を吸うと、了くん、枯れちゃうよ?」

「そうだねえ。でも安心して、君の血には僕、興味ないから」

 興味ない?

 なら、どうしてここに連れてきたの?

 疑問がグルグルと消化されないまま、頭の中を回っていく。

「そこに、人がいるでしょう?」

 頷く。

「そこにいる人、一人残らず吸ってほしいなって」

「え……」

 予想していなかった言葉に、私は固まる。

 吸う?

 どうして?

 なんで?

「ずっと、タイミングを計ってたんだよね。人工的に作られた君を、咲かせたくて」

 耳に慣れた声なのに、冷たさを含んだその声は、まるで知らない人のそれで。

 ゾッと背筋を悪寒が走る。

「なん、で……」

「ああ、安心して? 皆、薬を五本以上打ってるから、起きないよ。一度に大量に打たれると、何時間も彼らは起きないからね。死んではいないけれど、延々と眠り続けてる感じ。だから、苦しむこともなく、自分が死んだことを知ることもなく、枯れていけるんだ。……君が、ちゃんと吸えばね」

「そうじゃ、なくて」

「花人ってね、一日のうちに五人以上の血を飲めば咲くんだよ。……僕は、咲けなかったけど」

 立ち上がると、彼は乱雑に転がされている人へと歩き出す。

 なにをする気か察して必死にうしろに下がろうとするけれど、拘束されているせいで上手く下がれない。

 彼は一人の腕を掴むと、ズルズルと引きずってくる。

 壁に、背が付く。

 嫌だ嫌だと首を振るけれど、彼の口角は弧を描いたまま固定されていて、だけどその焦げ茶色の目は、なんの表情も写していない。

 虚ろな瞳が、すごく怖い。

 重たい音を立てて、私の前に人が転がる。

「吸って?」

「……」

 首を横に振る。

 呆れたような息が、上から降ってくる。

 彼が近づいてくる。なにをされるのかわからなくて、恐怖で身体が強張る。

 彼が隣にしゃがみこむ。と、腕が伸びたと思えば、髪の毛ごと頭を乱暴に掴まれる。

「い……っ!」

 痛い。

 思わず顔を歪めるけれど、その手は力を抜いてくれない。

 そのまま体重を込められて、私の口は目の前に転がっている人の首元に辿り着く。

「……飲まないのなら」

 普段聞いたこともないくらい、低い声。

 ゾクリと恐怖がまた新たに生まれていく。

「沙也加をここに連れてきて、僕が飽きるか、殺してくれと頼まれるまで、彼女の身体を切り刻み続けようかな」

 思わず目を見開く。

 花人は、血を吸われ尽すか、飢えるかして枯れるか、血を吸って咲くか、そのどちらかでしか死ねない。

 だからと言って、痛みを感じないわけじゃない。

 そんな、そんな痛みを、ずっと感じ続けさせるなんて、できない。できるはずがない。

「ごめ……さい……」

 小さく謝る。相手に聞こえるはずも、許されるはずもないのに。

 私は口を開く。そして、目の前の人の首元に、かぶりついた。



 それから私は、ただひたすらに吸い続けた。

 茨が身体から伸び始めたら、踏みつけて痛い思いをするのが嫌だから、なんて言いながら、了くんは拘束を解いて、私の身体を壁に押し付けた。

 茨はその間も伸び続けて、私の身体を壁に固定していく。


 三人、四人、五人。


 飲み切った頃には、自由に動かせる身体の部位は、ほとんど残っていなかった。

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