彼のおかげで私は今ここにいる、と彼女は言う。

 ゆっくりと瞼を上げていく。

 真っ暗な部屋。

 カーテンは閉め切られていて、電気だってついていない。

 でも、よく見える。どうしてだろう。

 頭が、靄がかかっているように動かない。

 ここはどこなんだろう。

 見覚えはあるけれど、自室ではない。

「目、覚めた?」

 聞き慣れた声に、ここがどこなのかを理解する。


 ここは、りょうの部屋だ。

 でも、どうして、了の部屋に?

「……了?」

 身体が重たくて、起き上がることができない。

 仕方がなく顔だけ声がしたほうに向ければ、了がそばに来る。そして、私が横になっているベッドの隣に椅子を置き、その上に座る。

 暗闇でもわかる、焦げ茶色の静かな瞳。

 いつも気のせいだと思っていた紅が、暗闇の中でゆらりと揺れる。

「どこまで、覚えてる?」

「どこまでって……かおると一緒に、いつもの部屋で了を待ってて、それで……」

 思い出せない。

 なぜだかそれをものすごく恐ろしく感じて。

 頭の中にかかっている靄を、必死で払いながら考える。

 なにがあったのか。

 どうして私はここにいるのか。


 なんで、了はいて、薫がこの部屋にいないのか。


 このまま血を飲まなければ枯れちゃうのかな。

 そんなことを呟いた記憶はある。

 それを肯定しつつも、薫は私に言葉をかけてくれた。

 握ってくれた冷たい両手。でも、そこにある薫の想いが、温かかった。

 今でも覚えている、その温もりを。


 思い出した。


 薫の、血の味を。

 腕に、そして首元に噛みついたことを。

 その血を飲んだことを。

 弱り切った薫を、助けに来た了に投げたことを。

 了の首を噛んだことを。

 そして、倒れたことを。


 全部、思い出した。


「ごめん! ごめんなさい! 本当にごめんなさい! わ、私……っ!」

 なにを言えばいいのかわからない。

 一番恐れていたことをしてしまった。

 もう、二人に合わせる顔がない。

 土下座でもなんでもしたいのに、動かない身体は、言うことを聞いてくれない。

「落ち着いて、沙也加さやか

「でも、わ、私! 二人を襲って!! 薫も! 了も! わ、わた、私――」

「沙也加っ!」

 大声で呼ばれて、私は口を閉じる。

 耳がキーンと無機質な音を鳴らしている。

「……ごめんね、大声出して」

「私こそ、その、ごめん……」

「謝るのはいいよ。たぶん、どれだけ謝っても足りないでしょ? そんなことで残りの年数使ってもしょうもないし」

 しょうもなくない。

 そう言いたいけれど、堪える。

 ここまで言われてそれでも謝り続ければそれは、謝罪の形をした自己満足のための言葉にしかならないから。

「聞きたいこと、ない? あったら答えられる限りで答えるよ」

「……了と……薫は、大丈夫なの?」

 ここに薫がいない理由。一番最悪なパターンが頭をよぎり、心臓がギュッとなる。

 怖い。

 でも、知らないままでいるほうが、もっと怖い。

「俺は大丈夫。もう傷だってふさがってるし」

 薬様様だよね、なんて笑いながら、了は首に貼ってあるガーゼをぺラリと剥がして見せる。

 確かに傷痕は残っているものの、もうそれは塞がりかけている。

「薫は俺よりも傷が深かったし、範囲も広かったから、念のためにしばらくの間自室で安静にしてろって。先生がつきっきりでいてくれるみたい。こんな生活久しぶりですって言って笑ってたし、まあ、大丈夫だと思うよ。心配なら、身体が動くようになったらお見舞いに行ってあげて。喜ぶと思う」

「……」

「大丈夫だよ。薫は、これで嫌いになったりしない。傷ついてはいるだろうけれど、これで会ってくれなくなるほうが、たぶんあいつは傷つくよ」

「……散々心配されて、協力だってしてくれて。それなのに、こんなことになって。合わせる顔なんてない」

 申し訳なさと、情けなさとが混ざり合って、もう嫌だった。


 なんで、どうして。


 飲めなかった原因なんて、薄々気づいてた。

 何度もチラつく博貴の顔。

 吸うことを受け入れてしまえば、もう二度と、博貴に会えないと思っていた。

 吸わなくても、会えないのに。

 受け入れてしまえば、人ではないのだと、自分はバケモノなのだと認めてしまうようで嫌だったんだ。

 実際はそんなことない。

 もしかしたらそれに近いのかもしれないけれど、少なくとも昔話で退治されるような、そういったバケモノではない。

「でも、ここで薫から逃げたら、きっと沙也加、後悔するよ。余計に傷つく」

「……」

「何度でも言うけれど。残された時間は少ないんだよ。それなのにそうやって、合わせる顔がない、なんて言ってたら、あっと言う間に時間切れで、謝ることさえできなくなる。薫は花人になって今年で三年。このままいろんな人の血を飲み続けたとしても、少なくとも沙也加よりも先に咲いていなくなっちゃうんだ」

「……」

「逃げきれちゃうんだよ、逃げようと思えば。でも、ずっと覚えていて、後悔し続けるんだろ、沙也加は。薫を傷つけたっていう事実に、更に謝れなかった、なにも言えなかった、避けてしまった……そんな後悔までするんだよ、きっと。そんなに背負えないよ。弱いもん、沙也加。弱いんだよ。だから、合わせる顔なくても、会いに行こうよ。……まあ、今は無理だろうけどさ」

 変に罪悪感を抱くな、と言った薫を思い出す。

 薫は生きている。


 一度、小さく深呼吸をする。


 とりあえず、一番最悪な事態……私が薫と了を枯らしてしまうということは避けられた。

 そこに、安心をしよう。

 そして、身体が動くようになったらすぐに謝りに行こう。

 表向きには許してくれるかもしれない。

 逆に、縁を切られるかもしれない。

 でもそれは当然だから。

「……了、ありがとう。ごめん」

「いーえ。他になにか、訊いておきたいことある?」

「私、なんで了の部屋にいるの?」

 私の疑問に、了は少しだけ表情を固くする。

「了?」

「……その説明、だけども。一つ、謝らなきゃいけないことと、ずっと黙っていたことがあるんだ」

「え?」

 私が謝る覚えはいくらでもあるけれど、了に謝られる覚えなんて、もちろんない。

「沙也加はこの話を聞いて、どういう判断をしても、自由だから。俺は責めないし、ちゃんと受け入れるから」

「え、なに……?」

 ただならぬ雰囲気に、私は小声で返す。

 了は少しだけ深呼吸をしたあと、ゆっくりと口を開いた。


「俺、吸血鬼なんだ」

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