彼女は、感情を押し殺して話す。

 その日は、やけに喉が渇く日だった。

 あれから数日が経っても、私は未だに血を飲むことができずにいた。


 校舎の奥。人気のない、いつもの空き教室。

 日直の仕事で遅れてくる了を、私と薫は椅子に座って待っていた。


 他愛のない話をして。笑って。

 ああ、平和だな、なんて柄にもなく思った。

 そして、そんな思いが出てきたからなのか。

「このまま血を吸えなかったら私、枯れるのかな」

 言うつもりもなかった言葉が、こぼれた。

 まずいと思って口を塞ぐけれど、出てきてしまった言葉がそれで戻ってくれるわけではなく。

「ごめ――」

「まあ、枯れるでしょうね、飲まなければ」

 淡々とした言葉だった。

 栗色の瞳は、伏せられている。

「何度も言っているように、このままでは枯れます。……そこまでの過程は辛いものですし、私だってあなたに枯れてほしくはありません。でも結局のところ、死ぬ、という部分だけ見れば、咲いても枯れても同じなんです。巻き込まれるようにして枯れることになったとしても、私は別に、後悔なんてしませんよ。あなたを憎く思うこともないです」

かおる……?」

「ただ……あなたに辛い思いをさせてしまったな、と、それだけはもしかしたら悔いるかもしれませんが。私は花人病にかからなければ、すでにもうこの世にはいない人ですから。だからもしも巻き込んでしまっても、変に罪悪感を抱く必要はないんです。そりゃ、まあ、もう少しだけこうやって生きてたいな、とは思いますけれど」

 でもね、と呟きながら、薫の青白くて冷たい手が、私の両手を包み込んで胸の高さまで持ち上げる。

沙也加さやか。あなたは、生きたいと思っているでしょう? 私たちを巻き込みたくないと思っているでしょう? きっとあなたのことだから、もしも私たちを巻き込むようなことがあれば、それこそ死ぬほど後悔するのでしょう。それこそ、あなたは死のうとするのでしょう。だけど花人は、枯れるか咲くことでしか死ねません。私は、死ぬために枯れようとするあなたも、死ぬために咲こうとするあなたも、見たくはないです」

「薫……」

 名前を呼べば、薫は栗色の瞳を細める。薄い唇の口角を上げて、コテン、と首を横に倒す。

「……あり――……っ!」

 ありがとう。

 その言葉が出てくるよりも先に、呼吸が苦しくなる。

 喉が渇いた。

 カラカラだ。

 だけどこの乾きが、水分で補われるものではないことを知っている。

 駄目だ。

 そう思って、握られた手を振り払おうとするけれど、うまく力が入らない。

「かお……っ、はっ、はな……って……!?」

 腕を引っ張られる。そのまま薫の腕にガッチリと捕らえられる。

 離れるためにもがこうとするけれど、思うように身体は動かない。

「大丈夫、大丈夫ですから」

 薫の腕が素早く動く。あの薬を刺されるんだと、理解した。

 よかった、襲う前に大人しくなることができる。


 そう、思ったのに。


「……つっ!」

 私はありったけの力を込めて身体を捻り、薬を握った腕に思いっきり噛みついていた。

 ごりっと硬い感触がして、だいぶ深くまで噛んだのだと理解する。

 遠くで、硬いものが床にぶつかる音がした。落とした物を取りに行こうとするのがわかったので、勢いよく足をおろす。

 それは、私の足の下で粉々に砕けた。

「沙也加……っ! やめ……いっ!」

 傷口を強く吸えば、悲鳴が上がる。

 美味しい。

 こんな美味しい飲み物、私は知らない。

 いや、一度飲んだことがある。

 でも、あれよりも美味しい。

 独特の香りが鼻を抜けていく。

 美味しい。もっと。もっと飲みたい。

 腕から顔を上げれば、痛みのせいなのかそれはぐったりとしている。

 その青白い首元に目が行く。

 あそこを噛めば、もっと飲める。

 口を大きく開けて、勢いよくかぶりつく。

「……っ!」

 声にならない悲鳴が、少し上から聞こえる。

 でも、関係ない。

 ただ、美味しい。血がいっぱいだ。

 喉を鳴らして飲む。美味しい。


「薫! 沙也加っ!」

 背中に迫る気配に気づく。

 同時に私は、血を飲むのをやめて、それを迫ってきた奴に投げ飛ばす。

 机にぶつかる音、うめき声、そして、床に落ちる硬い音。

 奴が手を伸ばすよりも先に、その硬い音を立てた物を、さっきと同じように踏みつぶす。

 舌打ちが聞こえたと思えば、奴は身体の上に乗ったそれをどかして、私に飛びついてきた。

 そのまま私の口を、自分の首元にくっつける。

 与えられたのだと理解するよりも前に、私は噛みついてその血を口に含む。

 甘い花の香り。美味しい。

 美味しいと感じたのに、飲み込んだ瞬間、息が詰まる。

「……っ!」

 喉が燃えるように熱い。

 頭が、身体中が、ミシミシ痛む。

 目の前が揺れている。

 どうして。

 なんで。

 疑問は浮かぶのに、それらは私の意識と一緒に闇の中へと引きずり込まれて行った。

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