花人病になったことで、寿命が延びた人がいる。
「そういえば、
柔らかな声が降ってくる。
話しが終わったのを察してか、話題を変えようとしてくれている。
感謝しながらも、きっと今の空気ががらりと変わるようなことはないから、少しだけ罪悪感が胸をつつく。
「弟の名前。……私、発症したとき、弟を襲ったの。そのときのことを、気を失っている間に思い出してた」
血が欲しいと喚く本能。
大きな瞳いっぱいに溜まった涙。
鼻を刺激する、錆びた鉄のような香り。
同時に思い出すのは、血走った瞳と、自分の花の香り。
そっと瞼を閉じる。
「
ここにだって、大切な人ができた。
まだ出会って間もないけれど、二人は大切な友人だ。傷つけたいはずがない。
でもこのまま血を吸わなければ、一緒にいる時間が長い二人なのだ、傷つけてしまう可能性は一番高い。
「隔離されてしまっても、結局吸わなければ襲ってしまうんだね。今回はたまたま襲われる側だったけれども、もしかしたら次は、自分が襲う側になるかもしれないんだ」
「嫌になった?」
その声は、掠れていて。
どこか震えているように感じて。
はっと瞼を上げれば、口角は普段と同じくらい上がっているのに、眉を八の字に寄せた了が視界に入る。
窓から入ってくる夏の光に、そのまま隠れて消えてしまいそうな表情。
なんで。
どうしてそんな表情をするの。
あなたが悪いわけじゃないでしょ。
なのに、どうしてそんな……そんな、叱られた子供みたいな表情をするの?
「……二人は、発症したとき、どうだったの?」
私は、了の問いかけに答えることができなかった。
答えなんて、決まっていたから。嫌になった、とかじゃなくて、花人病になったこと自体が嫌だった。この病があることが嫌だった。
でも、あんな了の表情を見てしまえば、そう答えることができなかった。
怖かった。
正直に答えた途端、了がいなくなってしまうような気がしたから。
「私は、母親を襲いましたよ」
視線を上に動かせば、栗色と目があう。口角は上がっているけれど、その瞳はどこか暗い。
「私、もともと病院で、寝たきりの生活を送っていたんです。余命だって、あと数か月もてばいいと言われていました。その日は母親が一人でお見舞いに来てくれていて。衝動が起きて、襲って。目が覚めたら車の中です。そこには、了もいました」
ふわり、薫が目を細める。栗色が光を取り戻す。
「花人病患者は、枯れるか咲くかしないと死ねません。そのおかげなんだと思います。数か月と言われていた余命は十年に延びて、私は何年も前と同じように自分の足で立って歩けています。病気が消えたのかはわかりませんけれど、そのせいで死ぬことはなくなりました。まあ、もともと身体は弱いので、それでも他の人と比べれば不健康なんでしょうけれども。私は、花人になってよかったと思っていますよ。こうして、二人にも出会えましたし」
薫は左手を私の頭に置いたまま立ち上がり、了の頭を右手で撫でる。
了は唇を尖らせる。でも、なにも言わずにされるがままになっている。まるで大きな子供のようで、なんだか微笑ましい。
「了も、
驚いて了の焦げ茶色の瞳をじっと見れば、了は一つ頷く。
了にも弟がいたこと、そして、同じように弟を襲ってしまったこと。
不謹慎だけれど、了をどこか身近に感じた。
「沙也加はさ、こっちに来てから誰かの血を吸ったの?」
「……まだ」
正直に答えれば、了はじっと私を見つめる。その視線は、怒っているようにも、呆れているようにも見えた。
「襲う側になりたくなければ、吸えばいいんだよ。そうすれば、十年後に咲くだけなんだから。閉じ込められることも、誰かを傷つけることもない」
「……うん」
わかってる。
わかってはいるけれど。
「誰の血を吸えばいいのか、吸ってもいいのか、わからなくて」
了は少し考えるように間を置いたあと、私と薫をチラリと見てから手を打った。軽やかな音が部屋に響く。
「わかった。僕のは飲ませることはできないから、薫のでもいい?」
「え?」
どうして了の血は飲めないの?
そしてなんでその流れで薫の血を飲むことになるの?
「わかりました。了、カッターあります?」
いやいやいや。
わかりましたじゃない。絶対違う。
なに言ってんの。
どうしてそんな冷静に、今日の夕飯なにがいい? カレー。みたいなノリで受け答えしているの。
あまりのテンポのよさに戸惑っているうちに了からカッターナイフを受け取った薫が、手の中でカチカチと音を立てて刃を出し始める。
「ちょ、え、なにやってんの?」
「沙也加は私が嫌いですか?」
細めた栗色が私を静かに見つめる。
「嫌いじゃない! 嫌いじゃないし、すごく好きだけど、なにやってん、の……」
薫がグッと長く出したカッターナイフの刃の部分を右手で握りしめる。そしてなんのためらいもなく左手を引く。
綺麗に整えられた眉が寄って、眉間にしわを作る。
途端に、独特な花の香りが部屋中に広がる。
「ちょっと!」
薫の後ろを回ってこちらにきた了が、背中に手を回して私の上半身を起き上がらせる。
貧血のせいか、力が上手く入らなくて、抵抗することもできない。
拒否しても、薫の右手が近づいてくる。
目の前まで来たとき、それまで握られていた左手が、開かれる。
一筋の細くて紅い線。その周りを覆うような液体から、花の香りがしている。
「私の花は、アセビです。馬が酔う木、と書きます。馬がこの花の葉を食べると、酔って足が立たなくなることから、この名前がついたみたいですね。流石に香りだけだと思うので、私の血が原因で身体中がしびれる、なんてことはないと思いますよ。了だって、いつも私の血を飲んでいますが、元気ですし」
飲んでください、と薫が言う。
表情自体は柔らかいのに、栗色の瞳には有無を言わせぬ強い光が揺れている。
ここまでしてもらっているのに飲まないのは失礼なような気がして、渋々舌を伸ばす。そして舌先ですくった血液を口の中で転がす。
錆びた鉄のような味が口中に広がるとともに、ふ、と脳内を駆けるのは、博貴の笑顔と、名も知らぬ男性の血走った瞳。
お姉ちゃん、と呼ぶ震えた声と、涙が溜まった瞳。
繋いだ手の体温。小さな温もり。守らないと。そう思った、何年も前の自分。
「……っ! ……っ」
「薫!」
「ありがとうございます!」
急いで差し出されたごみ箱のおかげで、布団が大惨事に見舞われることは回避した。
せりあがってくるものを堪えることができない。
なんで。どうして。飲まなきゃいけないのに。
目の前には、今吸ったばかりの紅だけじゃなくて、数口食べたアイスや一緒についていたウエハースらしきものが、粘着性を持って積もっていく。
つん、とした刺激臭が鼻をついて、さらに吐き気を促す。
固形物だったものが出てこなくなれば、胃液だけがせり上がってくる。
もうやめて。
お腹痛い。
気持ち悪い。
臭い。
優しく背中をさすってくれる了にも、髪が垂れてこないように抑えてくれている薫にも申し訳なくて。
私はただ、ごめんなさい、と、湿った声で謝り続けた。
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