短編各種
残火
犬神
古来からある陰陽道の一つ。今や失われ、禁忌とされた神を創造する術
_____
一日目
大好きな主が母屋から出てくるのを見て、何時ものように俺は「わん!」と一つ吠えてみた。そうすると主は顔をくしゃくしゃにして、笑いながら耳の後ろを優しく撫でてくれる。いつもと同じ、優しく俺を撫でて笑った
太陽が真上まで昇って、昼食の時間になった。主はいつも同じ時間にご飯を持ってきてくれる。こんなに天気がいい日は縁側で並んで一緒にご飯を食べるのが、晴れた日の俺の楽しみの一つだ。でも今日は何でだか主がご飯を持ってきてくれなかった。
今まではこんなことはなかったのに。
…主、忙しいのかな?
二日目
結局昨日は主は朝に顔を見たっきり、昼食の時間にも、夕食の時間にも俺の所に顔を出してくれることはなかった。
最近白い服のお役人さんと一緒にいる所をよく見かけていたから、お仕事が大変なのだろう。少しだけお腹が減っているけれど、主も大変なんだから、俺も頑張らないといけない。
お昼時。
母屋の引き戸を開けて出てきたのは主だ。急いで駆け寄ろうとしたけど、隣に白いお役人さんがいたから、飛びつくのはやめておいた。…邪魔したらダメだよね。
でもやっぱり久しぶりに主にあの優しい手で撫でて欲しくて、尻尾を揺らして主に近づいた。下から見上げた主はどうしてだか悲しそうだった。
いつも幸せそうに笑っていたのに、今日はどうしてだか曇模様みたいだ。
…お仕事で上手くいかなかったんだろうか?大丈夫、俺がいるよ。
人間みたいに意識して口角を上げてみた。主はいつも口元を吊り上げて、目元を緩めて、柔らかく笑う。
人間みたいに目元を緩めることはまだ難しかったけれど、口元は上手くいった。主みたいに穏やかに笑ってみせた。
そうしたら主は尚更悲しそうに唇を噛み締めていた。
その代わりに主の隣にいた白いお役人さんがとても嬉しそうに笑った。…でもなんでだろう、笑っているはずなのに、俺はどうしてだかお役人さんの笑顔を喜ぶことは出来なかった。笑顔のはずなのに、なんでだろう?
俺を優しく撫でた後、主はお役人さんと連れ立って行ってしまった。
_お腹が減ったな。それに喉も渇いた。
_主、早く帰ってこないかなぁ…。
四日目
「ごめん。ごめんなぁ、__、本当に…すまない」
瞳から涙を流して主が俺の前で泣いていた。
大丈夫だよ、主。俺は平気だよ。
だから泣かないで。主が泣き止んでくれないと、俺も苦しいんだ。
「何をしているのですか宗一郎。機は熟した。早く準備を進めておしまいなさい。余がここで見ておいてあげるから」
「し、しかし__様!この子は…この子は私の大切な家族なのです。妻が病で逝ってしまい、途方に暮れていた私と共に寄り添ってくれた大切な…」
ぼろぼろと流れる涙が俺を伝って地面に染み込んで、小さく斑点を作った。
主が流した涙は熱かった。触れた所からじわじわと暖かくなって、俺まで流せもしない涙が出てきてしまいそうだった。主、主、泣かないで。
「ただの犬畜生に同情など無用の産物ですよ。…いいから早く進めてしまいなさい。犬の命一つで村が救えるのならば優しいものでしょう」
「………」
白い役人がつまらなそうに俺を見ている。冷たく、情の感じられない瞳がひどく恐ろしい。白い役人さんの言葉に悔しそうに強く唇を噛んだ主は、涙の滲む瞳で俺に向かって「ごめんなぁ」とまた呟いた。
悔しい。俺がいつものように元気ならば、今すぐに主を悲しませるようなこの役人の喉を掻き切ってやるのに。
もう4日も何も食べていない。
水だって満足に飲めていないこの身体は俺の言う事を聞いてはくれない。
「ごめん…ごめんよ…許してくれ…__」
大丈夫、大丈夫だよ主。だから泣かないで。
俺はどうなってもいいから、だから、いつもみたいに優しく笑ってよ。俺は主の笑顔が大好きなんだから。主が笑ってくれないと、俺も笑えない。
「わん」と口に出したはずが、音になったのは掠れた吠え声にもならない微かな音。
そんな俺を泣きながら一撫でした主は、地面に大きな穴を掘り、俺の顔だけを出し、身体を冷たい地面の中に埋めた。
五日目
いい香りがする。これは肉だろうか。
鼻をつく香りに思わず目を開いた。目の前には主と白い役人が俺を遠巻きに眺めていた。主の目の下には濃い隈が浮かんでいる。
眠れてないんだ、主。
主は心配事があると夜に眠れない。お仕事の大役に抜擢された時だって、うまく出来るか不安なのだと、俺に零していた。そんな時は必ず俺を呼ぶ。そうして主は俺を優しく抱き寄せて、布団の中に入れてくれるのだ。
そんなことを思いながらも、空腹で仕方がない俺は目の前に置かれたものに吸い寄せられた。容器の中に入れられた肉はいつにも増して美味しそうだ。
_食べたい。あれが、たべたい
「わん!わんわんわん!」
出ないと思った声が出た。大きく響いた俺の声は聴こえているだろうに、主は俺と目を合わせてはくれない。欲しい!あれが欲しい!お腹が減った!食べたい!
欲しいものは目と鼻の先に有るのに、地面に埋められてしまっている俺にはとることが出来ない。
すぐそこに欲しいものがあるというのに、取れない。なんで、なんでなんでなんでなんでなんで。ほしいほしいほしいほしいほしい。あれがほしい。
「わんわんわんわん!」
吠える俺を置いて主と白い役人は踵を返した。
待って主。お腹が減った、お腹が減ったよ。食べたい、あれが食べたい。待って、置いていかないで。
_主は一度も振り返ることはなかった。
7日目
6日目は主は会いに来てくれなかった。
もう何も考えられなくなってきた。視界はぼやぼやと霞みがかって滲んでいて、もう上手く前も見えない。どうして主は会いに来てくれないんだろう。
もう、何も考えたくなかった。
「ほぅ。…これはこれは。上手く出来上がっていますね。…仕上げ時でしょうか」
「__様」
「宗一郎、喜びなさい?前段階は無事成功ですよ。後はこれの首を切り落とすだけです」
「…はい、わかりました」
主は虚ろな目で白い役人の言葉に頷いた。
役人は満足気に笑みを浮かべ、主に大きな鍬を差し出した。主、主、主。俺の中で激しく警笛が鳴り響いた。
最後の力を振り絞って俺は吠えたが、主の瞳に俺が映ることは無かった。
不気味な笑顔を浮かべた白い役人が俺を嫌な目で眺めている。
主は虚ろな瞳のまま、
そしてそのままそれを___
俺がただの犬であった時の記憶はここで途切れている。
___
「ヰタ」
かけられた少し高い声に閉じていた目を開いた。
鬱蒼と茂った森の中、涼し気な風が頬を撫で、細く目を眇める。
ここはいつでも涼しくて、過ごしやすい。
「…あ、ごめん。探させちゃった?」
「いや。構わない。…珍しいな、考え事か?」
問いかけられた言葉には少しの心配の念が込められている。…彼が感情を他人に悟らせるというのはとても稀有なことだ。珍しいこともあるものだと、小さく笑を零した。
「うん。ちょっとばかり、昔のことをね。…まだ俺が何の変哲もない無力な獣だった時の、つまらない話だよ」
「…そうか。キミは人間を…怨んでいるのか?」
再び問いかけられた俺は考え込むこともなく即答した。
考えるまでもなく、決まっている事だからだ。
「まさか。…俺は人間のこと、大好きだよ」
「……残酷な呪いを受けたとしても、か?」
彼は心底不思議そうに首をかしげた。彼には不思議で仕方が無いのだろう。
…彼は明言することはないけれど、人間を…恨んでいるのだろうから。
何があったのかは知らない。それほど俺たちの付き合いは長くはない。
でも俺が言えるのは一つだけだ。
「だって主の…主の役に立てたのならば、本望だよ」
「…ふーん」
つまらなそうに相槌を返した彼は踵を返す。この話題に興味がなくなったのだろう、相変わらずのマイペースだ。ざざあとざわめく森の音を聞いていた俺は彼の言葉を聞き逃してしまったのだ。
「…その主とやらは、あの後、キミが殺しただろう?」
____
こちらはなろうさんの方で連載している「鬼が歩けば災にあたる」のプチスピンオフになっております。後半2人は、作中に出てくる予定のキャラクターです。
短編各種 残火 @mikagezankou
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