根暗な私の独り言

くらげ

根暗な私の独り言

人間には、絶対に変えることのできない根本的な性格というものがある。


ポジティブな人、ネガティブな人。

努力できる人、そうでない人。

優しい人、意地悪な人。

明るい人、そして私のように根暗な人。


これらの“性格”と呼ばれるものは、表面上は取り繕えたとしてもやはり根本的には変えることはできないのだと私は思う。

例えば自己中心的な人が相手を思いやらなければと思って利他的な行動を取ったとする。しかしその行動の動機に「優しい人に見られたい」という損得勘定が少しでも含まれていた場合、その人は残念ながら偽善者となり果て、芯から優しい人にはなれないのである。



人の感じ方は、先天的なものだ。

ネガティブな人だって、好きでネガティブなわけじゃない。努力できない人だって、意地悪な人だって、根暗な人だって、そうありたくてそうなっているわけじゃない。

明るく考えようとしても、どうしても思考が悲観的に曲がっていくのだ。どうしても。


同じことがポジティブな人とネガティブな人に降りかかったとして、思うことは違う。

人に少し無視されたとして、ポジティブな人は、例えばこう思う。「気のせいでしょ、それがなに?」

対してネガティブな人は、こう思う。「どうしよう私何かしたかな、どうしよう本当にどうしよう、もう無理だ」

また、少し失言してしまったとして、ポジティブな人は、そもそも失言したことに気づかないかもしれない。

しかしネガティブな人はきっと、こう思う。「そんなつもりなかったのに、あぁどうしていつもこうなってしまうんだろう。もう消えたい、この世から消えてなくなりたい」


厄介なのは、ポジティブな人なら気にも止めないことに、ネガティブな人は傷つき自分を責めることである。

些細なことでやってしまったと思い自分を責め続けるのは、他でもない自分にいじめられているということになる。

それが毎日続いていく。自分に、自分を否定する言葉をかけられ続ける。

そうしたら、更にネガティブになって行くのは目に見えている。

悲観的な負のループから自力で抜け出せることなど、到底できないのだ。



話は変わるが、何という特技がなくても愛されている人を稀に見る。

そういうのを、愛され体質と言うのだろう。

そして私はきっと、“愛されない体質”なのだと思う。

訳もなく可愛がられたためしがない。


何もなくても愛される人は、独特な人を虜にする雰囲気をもっている。魅惑的、時に蠱惑的な、中毒性を含んだ雰囲気。

私は才能が欲しいとよく嘆いているが、何より欲しいのは愛される才能だ。

絵の才能だって、歌の才能だって、勉強だって運動だってお笑いだって、愛される才能には敵わない。

何故なら、何かができる才能があったとしても愛されるとは限らないからだ。

何もしなくても周りから愛され、可愛がられ、そんなの羨ましいにも程がある。

しかし残念ながら、愛され体質というのは完全に先天的なものらしい。


昔、いつも笑って優しくするようにすれば自分も愛され体質になれるのかと思い、やってみたことがあった。

もちろん、実行もできていたはずだ。

しかし、心の奥底にある「愛されたい」という欲望がにじみ出ていたのかもしれない。

真の愛され体質の人みたいに、人が自然に寄ってくるようにはならなかった。



やっぱり、世界は不平等だ。

私はそう思うが、その一方でネガティブな人に人が寄らないのは納得できる。

誰だって、ネガティブでいたいわけなどない。しかしネガティブな人と一緒にいてネガティブな言葉をずっと聞いていると、理由はなくともなんだかどんよりとした気持ちになっていく、というのは誰もが経験したことがある話だろう。


自分が落ちこんでいる時は、共に沈んでくれるからいいかもしれない。だが、本当に自分を立ち直らせ成長させてくれるのは、ポジティブに励まし他の視点から新しい考え方を教えてくれる人なのだと思う。それに、ポジティブな人の近くにいると自分もポジティブになれる、と聞いたことがある。

そして自分が嬉しい時、テンションが高い時は尚更、ネガティブな人とは一緒にいたくない。誰でも、自分と共に喜んでくれる人と同じ時を過ごしたいと思うものなのである。



考えないことこそ、一番の幸せだ。以前このようなことを聞いた。

その理論から言うと、独り言と称してこんなに考え、携帯に向かって吐き出している私は多分、世界一の不幸者だ。

しかしそれは不正解。実際には私は、割と幸せに過ごしている。

確かに、ネガティブで根暗な性格のせいで無駄に悩むことはある。そしてそんな自分が嫌になることも沢山ある。

だがこんな私にも、幸せな出来事は訪れる。楽しい瞬間が、必ずある。ネガティブを吹き飛ばす程の、喜ばしい何かが。

だから私のような根暗な人間も、限度を超える酷いことが起きさえしなければ、生きていけていると思うのだ。


考えることは決して不幸なことではない。

考えすぎると悪いことまで考えてしまうが、それもそれで良いではないか。

少なくとも、何も考えずお気楽に生きている人よりかは、人の痛みを理解できる優しい人になれるだろう。


それに私は、人生における幸せの総量はあらかじめ決まっていると思っている。

例えば信じられないくらいの才能に恵まれた人がいたとしても、その人はきっと環境に恵まれなかったり、理解されなくて苦しんでいたり、あるいはこの世を去るのがあまりに早かったりする。

逆に、平凡な人生を歩んだ人がいたとして、その人はきっと長生きする。少しずつ、普通の幸せを積み重ね、それがいっぱいになった時、死に至るのだ。


世界は不平等だ。しかし、公平なのだ。

だから、考えすぎて一時的に不幸に感じたとしても、必ず幸せが訪れる。理由やきっかけなどなく、自然にやってくるのだ。

詰まるところ性格や環境、才能など変えられない要素全てひっくるめて、現時点での幸せの量を考えたところで、最終的にどうなっていくのかなんて誰にも分かりやしないのだ。

性格などの要素が幸せに関わってくるとも、限らない。



人には変えられないものがある。だがどこかの小説の登場人物が言っていた。

「人間が一番長く付き合わなければならないのは、自分自身なんだ」

これだけは誰が何と言おうが変わらない事実であり、だからこそ変えられないものはそのまま、自分ごと受け入れることが必要なのだと私は思う。


ここまで考えても、ではどうすればいいかなんて結論は出ない。

しかし私は考え、足掻き続ける。それが私の性格で、私という人物である限り。


もしこの文を読んでいるあなたが、自分の性格や存在が嫌で自分を変えたいと思っているとしたら、無理して自分を偽る必要はない、と言いたい。

人生で一番長く付き合っていくのは、紛れもない自分自身なのだから。

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