第28話 かけがえない希望のおはなし


 夏の名残がいつの間にか消えて、山間の田舎道には早くも木枯らしが吹き始めていた。


 懐かしい匂いが鼻先をくすぐる。ちょうど衣替えしたばかりの長袖シャツからか、それとも半年ぶりに訪れたこの田園からか。周囲を見渡せば規則正しく並んで実った稲穂が黄金こがね色に輝いている。この光景に見覚えがなかったから、懐かしいと感じるのは可笑しく思えた。


 一年前の今頃にも、病院へと続くこの道を歩いていた。けれど眼に映る風景はどれも白黒のモノクロームで、自分の感性に頓着することもなかった。


 そんな当時のことを考えると、僕はどれだけ独りよがりだったのだろうと頭を抱えたくなる。病院を囲む山々だって広い視野で眺めれば美しい紅葉なのに、まばらに葉の落ちた冬の山だけを見て殺風景だと決めつけていた。


 あの病室から千世が見ていたのは、変わりゆく山が見せる豊かな表情だったのだと、今ならわかる気がする。




 三月の退院以来一度も行くことのなかった山間の病院に足を踏み入れた。面会の手続きを受付で済ませた後、久々にあの道筋を辿る。曲がり角までの歩数を身体が覚えていて、あの日々も僕の一部になっていたんだと気づく。


 前髪で眼を隠すことをやめてから、こういう新しい発見が増えた。そのことを嬉しいと感じている。


 世界の半分が息を吹き返したみたいだ――僕はそんなふうに、思っていた。




 造花庭園は様変わりしていた。


 色彩が全く別に感じられたのは僕自身の心境の変化もあるかもしれないが、それを差し引いても見覚えのない形状の花々が多かった。


「あっ、遥斗さーん」


 司の声だ。聞こえるほうに顔を向けると、司だけでなく沙智もベンチに座って手を振っていた。


「こんにちは」


 近くに寄って軽く挨拶をしてから、疑問を口にしてみる。


「ここの花、もしかして総入れ替えした?」

「さすが兄さん、目敏いね」


 得意げに沙智が答えた。


「季節ごとに入れ替えているんだよ。いくら枯れない造花だからって、変化がなさすぎるのも良くないもんね」

「まぁ俺らもさっき看護師のお姉さんに聞いたんですけど」

「ちょっと先輩それ言わないでくださいよぉ」


 司の口出しに、膨れっ面になる沙智。しばらく見ないうちに随分と距離が縮んだようだ。


 だがこれまで抱いていた憧れから恋愛感情にならないか、義兄としては心配だ。司にはすっかり惚れ込んでいる彼女がいることを、さすがに知らないわけはないだろうけれど。念のため釘を刺しておいたほうが良いかもしれない。


「そういえば司の彼女の実家は花屋だって聞いたな。司もそこのところ、詳しいの?」

「遥斗さんには言ってましたっけ。いえ、俺はからっきしで」

「じゃあ次の見舞いのとき、彼女さんに花選びを手伝ってもらえないかな。全部任せるより、ある程度自分で選びたいから」

「わかりました。ユウに頼んでみます」


 一連の会話を聞いても沙智の態度に変化は見られない。ということは司に彼女がいるのは承知済みか。


「兄さんずるいよ、ユウさんに手伝ってもらうなんて」

「何もずるくないだろ。助けを借りるだけなんだから」

「そう言ってお近づきになるつもりでしょ、あの美人さんと」


 妙な噛みつき方をしてくる沙智。そこで重要なことに気がついた。


 ユウという名前は確かに司の彼女の名前だ。でも、沙智の知っているユウとは、あの女子会のときに見た司の女装姿。あれから数か月経ってはいるが、もし沙智があのまま誤解していたとしたら。


「兄さんが行くって言うならあたしも一緒に――」

「やっぱりさっきの話はナシで」

「えーっ、なんでよー!」


 直感だった。沙智はユウに会ってはならない気がする。とにかく司の女装が沙智にばれたら非常にややこしい予感がしたのだ。


 沙智は不服そうだが仕方ない。これは巡り巡って沙智のためになる判断だと信じたかった。それよりも問題なのは司の愉快そうな顔。計算通りとでも言いたそうで、憎らしい。


「そんなことより早く行こう。ナガサキさんたちも後から来るんだろう?」

「そうでした。鉢合わせてもアレですし、急ぎましょうか」


 多人数で押しかけては迷惑だという彼らの配慮を無下にはできない。


 とはいえ、彼女自身は騒がしいほうが喜んでくれるかもしれない。そうして「皆さんがうるさいから目が覚めちゃいました」なんて言って舌を出すくらいのことはするに違いなかった。


 でも同時に、それらの出来事が決して起こりはしないこともわかっている。


 だからそんな滑稽な妄想をする自分は、相も変わらず弱いままなのだろう。




 まるで糸の切れた人形のように、憂月はベッドに寝かされていた。


 最後のライブから二か月。直後に眠りに落ちた憂月はこの病院に搬送された。それから一度も目覚めることなく、今に至っている。


 話によればこの病院は憂月の父方の親族が経営しているらしい。昏睡状態に陥った彼女が延命処置を施されているのは、世間体を気にしているからという話も聞いた。


 この二か月、複雑な感情が常に渦巻いていた。その折り合いに長い時間をかけてしまったことが申し訳なかった。こんなことでは笑われてしまうと思いながら、それがただの妄想で終わるのを虚しく感じた。


 きっと憂月はこのまま目覚めない。


「馬鹿野郎」


 返事はない。私はヤローじゃない、なんて間の抜けた返答が僕の脳内で浮かぶだけ。


 こうならない方法がどこかにあったのだろうか。選ぶ余地がないようで、本当は憂月を眠らせない選択肢が存在していたんじゃないか。僕がそのやり方を見逃してしまっていただけで、もう一度やり直すことができれば――


「兄さん」


 後ろから僕の肩に沙智が手を乗せた。微かな震えが伝わってくる。


「自分を責めるのは、よしてよ」


 僕だけじゃない。沙智も司も、こうならない方法を探していた。だけどどうしようもなくて、現実を受け入れざるを得なくて、結局選択を憂月本人に委ねた。その信託を後悔するのは、憂月を疑うのと変わらない。


 最後に憂月は言っていた。自分の世界が終わっても、もう半分は皆のなかで生き続けると。まったく、その通りだと思った。


「きみは勝手なやつだ。自分のやりたいようにやって、悩みの種を押しつけて」


 眠る少女に語り聞かせるようにして言う。


「幾らでも文句があるぞ。僕の願いを無視したこととか、誤解を生むような振る舞いをしたこととか――千世との繋がりだって、教えてくれれば良かったんだ」


 憂月は動かない。まるで、生きながら死んでいるみたいに。


 湧いてきたのは怒りでも悔しさでもなく、悲しみだった。こんな結末は幸福でもなんでもない。生まれ変わりたいという彼女の願いは、こうしている間にも引き延ばされていく。そのことが、ただただ悲しかった。


 今すぐその細い首を絞めて死なせてやるべきなのかもしれない。そうすることが彼女の願いを叶えることならば、僕にはその義務がある。


 でも、嫌だ。それだけは絶対にできない。


 世界の半分が自分以外で作り上げられるものだとしても。


 憂月の世界は、ここにしかないのだから。


 それを終わらせることだけは、どうしてもできなかった。



「ごめんな、憂月。それでも僕は――」



 きみに生きていてほしいと、そう思うんだ。


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