第27話 旅の終わりに
◇ ◆ ◇
初めに聞こえたのは、車内放送が告げる目的地の駅名だった。
うたた寝から覚め、窓からの日差しに眼を細める。長かった旅が一瞬のように感じられ、僕は夢を見ていたのだと改めて知った。
小さな欠伸を噛み殺し、向かい側の座席に座る人々の顔を眺める。無貌ではなく、それぞれが異なる特徴の顔立ちであることが認識できる。
そのうちのひとり、子連れの母親らしき女性が怪訝な眼でこちらを見返してきた。釈明が必要というわけではないだろうが、とりあえず頭を下げてから視線を逸らした。
数分後に目的地に停車。改札を出た所で沙智が待っていた。
「遥斗兄さんだけじゃあ不安だからね。迷子にならないよう、案内してあげます」
動きやすそうなシャツに丈の短めなフレアスカート。その恰好からライブを楽しみにしているのが透けて見えるが、そこに突っ込んでも仕方ない。かく言う僕も、司から渡された黒地のバンドTシャツを着ていた。
「それにしても兄さん、そのバンT似合ってませんなぁ」
「知ってるよ」
強がりつつ、もしかしたらさっき怪しまれたのはこのシャツのせいもあるかもしれないと都合よく解釈する。ヒヨコが絞首台に立っている絵がプリントされた服は、誰が見ても物騒だ。
駅から下町の中へと歩き出し、芸大通りに入る。大学は夏期の休業期間だそうだが、付近のアトリエやホールなどの施設が営業しているため、学生の人通りは多い。ライブハウス『Hey音峯寺』もその一部らしく、何人かは僕らと同じ道のりを進んでいるようだった。
「これが最後かもしれない、って聞いた」
歩きながら、沙智は平然とした口調を装った
「白野さん、契約の更新をしなかったんだって。メンバーのなかでも続けてほしいって意見と脱退を認めるって意見とで割れて、結局どうなるか決まらない状態のまま今日が来ちゃったの」
「それは司が言ってたのか?」
「うん。先輩は認める側みたい」
脱退の話は以前ナガサキらと会った際に聞いていた。
憂月がボーカルを辞めるというのは、主張を止めるのと同義だ。生きていることを証明しなくなったら彼女がどうなってしまうのか、誰にもわからない。
けれど、憂月自身がそう望んだのなら認めるしかないとナガサキは言った。司も憂月の危うさには前々から注視していたし、契約の満了を機に一度間を置くことに賛成していた。
「兄さんはどう思う?」
沙智はあくまで淡々と訊いてくる。
「僕は、憂月の意思を尊重するよ」
「どうして?」
「唄わない、と決めたならそうすればいい。でも、ひょっとしたら今日のライブで心変わりしてやっぱりこれからも唄う、って言うかもしれない。そういうことを平気でするやつなんだ、あの子は」
僕はわかっている。それが単なる希望であって、起こり得る確率は限りなく低いということを。憂月の決断は、どうあっても彼女の望みとは矛盾しようがないということを。
「そっか」
沙智はどこか納得したような面持ちで、けれどまだ得心がいかないようでもあった。憂月がどれだけ話したかは知らないが、沙智はもう四か月以上友達として付き合ってきた相手の事情を人づてに聞くことを、歯痒く感じているのかもしれない。
そう思うと、強がって知ったかぶるこの四つ年下の妹の頭頂部に、手を置いてみたくなった。
「なっ、なんれすか兄さんっ」
前触れなく乗せられたのが効いたのか、普段あまり聞かない呂律の回らなさで沙智は吠えた。両手で僕の腕を掴み、振り払う。
「女子の頭に手をポン置きするなんてどういう
「あのさ。もし沙智が居てくれなかったら、僕はここに来れなかったかもなって」
「はい?」
疑問符を浮かべる沙智。もはや淡白な表情を維持する余裕はないようだった。
「これも運命なのかなって思っただけだよ」
困惑したままの沙智を置き去りにして歩みを速める。どんどん切り替わっていく商店街の風景と、すれ違う人々の個性を両の眼に焼きつける。僕はもう、片側の世界を恐れることはしない。
頭上を眺めるだけでも、世界に果てはないのだとわかるのだから。
終わりが見えるなんて虚妄は、これで終わりにしよう。
◆ ◇ ◆
白野憂月という少女がいた。
世間は彼女を不幸体質と呼んでいる。
六歳にして事故で両親を失い、身体の半分を人工物で補って生き延び、後遺症との闘いに幼少期を費やし、頼るべき大人たちには疎まれ、
彼女の一生は可哀想というたった一言で片づけられてしまうのかもしれない。
けれど、僕は知っている。彼女自身は決してそうは思っていないことを。
あらゆるものを失い続けた憂月は、常に未来を見ていた。過去に何が起きても未来だけは見失わない。その意志が彼女のすべてだった。
過去に縛られ、未来に怯えることこそが彼女の言う不幸。あの子は僕と出会うずっと前から、幸いの答えを知っていた。
だからあの子は特別だったんだ。
僕は直視できなかった。眩しすぎる彼女の輝きに、生き様に、眼を向けていられなかった。そうして白いスクリーンに描いた虚像を人形と呼んで、自分を慰めた。
その間にも憂月は未来へ進み続ける。それはときに周囲を巻き込んで、揺らがせるほどに強靭な推進力を持っていた。たとえ終着点が何処であっても、そのエネルギーは疑いようもなく実存していた。
誰もが彼女のようには生きられない。
裏を返せば彼女は誰よりも生きていた。
だから、その証明として少女は唄う。
光溢れる、舞台の上で。
◇ ◆ ◇
『私は孤独でした』
静まり返ったホール。マイクを手に憂月は言った。
純白のワンピース。黒革のアイパッチ。手折れそうな痩身。浮世離れした容貌。彼女はそこに在るだけなのに、その姿を見た者は奇跡を目撃したような錯覚に陥るという。
『私以外の生命は全て幻と思っていました。世界は、私だけでできていると』
大勢の人が、彼女の言葉を聞いていた。
『ここに集まってくれた皆さんも、ひょっとしたら私の見ている幻想なのかもしれない。本当の私は舞台の上で独りごちているだけなのかもしれない。私には、そうでないことを確認する術がありません。皆さんの声を、姿を、信じるしかない』
誰も彼も、物音ひとつ立てずに少女を見守っていた。そこで声援を掛けることがどんなに無意味かを、理屈抜きに感じていたからだ。
それだけの力が、ここまでの彼女の唄声には秘められていたが――
『けれど、そんなことありませんでした』
いともあっさり、憂月は数秒前の主張をひっくり返した。
『私って馬鹿なんですよね。思い込んだらそれだけで全力疾走できるっていうか、ご飯何杯でもいけるっていうか。こんな私で作られた世界なら、もっとヘンテコでないとおかしいじゃんって思ったわけです』
そのあっけらかんとした物言いに、ホール内の空気が和らいでいく。
わざとらしく咳払いした憂月は、さらに続ける。
『これまでに、色んな人と出会いました。それぞれが違う世界を見ていて、その共通項をもとに違う人同士が理解し合っていく。そうして世界の半分は作られていくんだと、今はそう思っています』
世界は独りでできているんじゃない。各個人が生まれながらに持つ世界と、外部にある様々な世界とを組み合わせて、人間は世界を作り出している。
『私、カクリはみんなに貰ったこの半分の世界を大切にします。たとえ私の世界が終わってしまっても、もう半分はみんなの中で生き続けていると信じているから』
その言葉は、どうしようもなく別れの挨拶だった。
憂月は涙を見せない。とうに枯れ果ててしまっているのかもしれない。それなのに僕は、彼女が泣いているように見えていた。
群青色の照明が少女のワンピースを染めた。昏い海底を思わせる舞台演出が、彼女の神秘性を相乗的に際立たせる。
僕はその情景に見覚えがあった。
あの日見た今際の際は、これだったのか――
『最後の曲です。聴いてくれると、嬉しいな』
そうして憂月は唄い始めた。
切実な願いの籠められた、美しく透き通った声だった。
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