第26話 幻想の此方から
ライブの日。僕は白いアスファルトの上を歩いていた。
照り返す太陽光が肌を貫かんばかりに突き刺さる、火傷しそうな暑さ。その日は普段よりも空が眩しく感じられ、群立する建物の姿も朧げだった。
芸大通りに差し掛かると、顔のない人型がちらほらと見えるようになった。個人を個人たらしめる特徴が、彼らからは受け取ることができなかった。僕はその不気味な人型たちを視界に入れないようにした。
道を進めば進むほど、顔のない人型たちの身体が鏡のようになっていることがわかった。彼らが太陽光を反射することで今日はいつもより眩しいのだと納得した。
ライブハウスが近づくと、道幅はあからさまに狭くなっていく。一度目に来たときは他人の誘導があったから気づかなかったのかもしれない。
まるで迷宮のようだ。ほとんど壁伝いに歩かなければならないうえ、空があんなにも遠く感じる。誰の力も借りず、自分の身ひとつで進まなければならないことに心細さを覚えた。
道中、壁に寄りかかって身体を休める。記憶が正しければあと数分もすれば会場に到着するはずだ。開演時間にはまだ余裕がある。焦る必要はない。
ズボンのポケットの中で携帯が振動した。電話だ。
千世の入院する医院からだった。
通話ボタンを押して耳に当てる。
「はい、橙崎ですが」
看護師らしい聞き覚えのある声が、早口に用件を説明した。
僕は努めて冷静にそれを聞き取ってから、通話を終える。すぐさま踵を返して駅へと戻り、医院へ向かう電車に乗った。
千世の容態が急変したらしい。
◆ ◇ ◆
いつもの個室がまるで異世界のようだった。
大量に運び込まれた医療機器。それらから延びた複数本の管を介して、ベッドの上で眠る千世の身体が繋がれている。
三人の看護師が忙しなく室内を動き回っていたが、僕が到着したのを見て二人が退室をした。もう一人は出入り口の隣に移動して、僕を彼女の隣へと促した。
間近に見た千世の顔は蒼白だった。先程まで呼吸器をつけていたのか、うっすらと跡形が残っている。それはとても痛ましく感じられた。
嘘みたいだった。目の当たりにしてもなお、こんなことはあり得ないと無意識に頭の中で繰り返し唱えていた。
「は、ると……」
小さな声がした。千世の眼がうっすらと開く。
「きて、くれたのね」
「……当たり前、でしょう」
千切れるように胸が痛む。
あり得ないと思いつつ、こうなるかもしれない可能性はずっと承知していた。担当医からいつ病態が変化するかわからないという話も、聞かされていた。
常に張り詰めた心地でいたつもりだった。でもそうじゃなかった。僕は千世のことだけじゃなく、あの少女を救うことにも感情を割いていた。
それが駄目だったのか?
千世が僕の全てであるのに、他のものに手を伸ばしたことが間違いだった。もっと彼女の傍に居れば、こんなことにはならなかったのだろう。
選択は既に為されていたのだ。僕は今更になって気がついた。
「ごめんなさい」
謝ってもどうにもならない。千世に返事を望むぶん、酷なだけだ。
千世はもう声を発することもできないようで、ただ僕を眺めている。口角を上げて、慰めるように笑おうとしてくれている。こんな状態になっても僕を慮る彼女。
どうしてそこまでできる。もう充分だ。もう僕を慰めなくたっていい。これからは僕がこれまでの恩を一生をかけてきみに返す番なんだ。だから、きみが居なくなるなんてことがあったら僕には生きる意味がない。
――ほんとうのさいわいは一体何だろう――
僕はジョバンニのようにはなれない。
カムパネルラの居ない世界で、孤独に耐え幸いを探す少年のようには。
これは僕のエゴ。僕が全ての代償を払うべき願い。
だからどうか神様。
千世の命を、助けてください。
そう祈った途端に世界は真っ白になった。ほぼ全部の物体が白い絵の具に塗りつぶされたみたいに病室の壁面へ溶けて、遠近感覚ごと呑み込まれていく。残ったのは千世が横たわるベッドのみ。
唐突に僕は理解する。ここは千世の今際の際だ。何度も見てきた風景のなかに僕と千世は居る。
でも、差異が一つだけある。黒い人影、死神が居ないことだ。
僕は千世の枕元に鏡があるのに気がつく。露骨な演出だとわかった。それでも僕はその鏡に触れないわけにはいかない。
震える手で鏡を持ち、自分の姿を映し出す。
真っ黒な装束を着た、無貌の人型がそこに居た。
◆◇◆◇◆◇◆◆
◆◇◆◇◆◆
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◆
この空間にやってきてからどれだけの時間が経っただろう。
数秒かもしれない。数時間かもしれない。もしかしたら、数年かも。
けれどそんなことはどうだってよかった。僕は死神で、千世はまだ生きている。僕が千世の命を刈り取らなければ、千世は永遠に生きていられる。僕はこのままずっとふたりでいられるのなら、元に戻る必要はないと思っていた。
現実とは別の世界にいることは、何の問題にもならない。これが夢だと心のどこかで思っていても、彼女との時間を失うことに比べれば些事だ。
心地良い沈黙。穏やかに過ぎる時間。
僕は時折千世に話しかけた。千世は安らかに眠ったままで返事をしない。そのことを寂しく思ったが、仕方ないと割り切った。現実に戻って彼女の存在を失うくらいなら、このままでいい。
ふと鏡に自分を映してみる。黒いフードを深く被った下で、のっぺらぼうになった僕の顔。でも声を発することはできるし視覚も聴覚も触覚もある。些細な齟齬だったが何故か気になった。
意識を顔の筋肉に集中させる。眼の開きかたを思い出してみる。大丈夫だ、忘れてはいない。ゆっくりとまぶたを上げると、顔の二つの窪みに僕の両眼が発生した。それらの虹彩は、宝玉のような翡翠色をしていた。
それを認めた直後、突如として記憶が激流のように蘇り始める。
自我の目覚めた瞬間。孤児院での生活と規則。集団に混じる苦悶。老犬の喪失。大人の身勝手。孤独と安寧。幽世への憧憬。将来に抱く諦念。幸福の希求。無力に対する憤慨。無常の許容。己の凡愚。残してきた後悔。不滅への期待と、その泡沫。
そうか。それでも僕は――
「夢はこれでおしまい?」
千世の声がした。
「戻ったら、ここには戻れなくなる。取り返しのつかないことが現実に起きても、きみは受け入れることができる?」
「わかりません。けれど、戻る理由ができました」
「それはなに?」
どこまでも優しい声。天使のようなその響きが届かない場所へ、僕は行こうとしている。
「幸せにならなくちゃいけないんです。世界は、たったひとつしかないから」
僕らには、そうすることしかできないから。
どんなに怖くても、僕らは生きていかなくちゃいけないから。
「さようなら。僕の幻想」
ぱきん、と鳴って鏡にひびが入る。そこを起点として、空間が吸い込まれるようにして収束していった。
僕は暗闇へ投げ出され、白い箱庭から遠ざかっていく。上も下もわからない無色の波に流され、意識が微睡みの底へ落ちていくのを感じる。その潮流に僕はただ身を任せるのみだった。
やがて旅は終わる。そして目覚めるだろう。
もう一度、あの世界でやり直すために。
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