第9話 矛盾

 駅と反対側に向かって伸びる路側帯の白い線上を、綱渡りするように憂月は歩いた。僕は歩道からその背中を追う。交差点を曲がって閑静な住宅街に入ると、通り過ぎる車両を気にしなくて済むようになった。


 墓参りなんです、と憂月は前を向いたまま言った。


「住宅地の中に集合墓地があって、そこへは月に一度花を供えに行くのです」


 自分がどうしてこの地区にいたかを律儀に説明する意味合いで言ったのだろう。しかし一切の感情がこもらない言葉には、この話題を続けたくないという意思があった。


 僕はそれを汲み取って、彼女が話したいことだけを話せるように努めることにする。要はいつもと変わらない対応。


 膝下丈のプリーツスカートが風にはためき、揺れた。


「めくれてません? めくれてませんよね?」

「水色」

「よかったー、見えてない」


 憂月の下着が水色ではないという心底どうでもいい情報が手に入った瞬間だった。


「こうしていると私って普通の女子高生みたいですよね」


 まるで自分が普通ではないのは一般認識だと言わんばかりだった。


「お兄さんは、自分のことを普通だと思いますか?」

「平凡という意味でなら普通だと思うけれど」

「平凡ではないでしょ、お兄さんは」

「僕ほど変哲のないやつもいないだろう」

「そう釈明する人ほど信用ならないものです」


 身に覚えはないが、社交経験値ゼロ付近の僕では反例を挙げられそうにもない。


 論破できたと判断したのか、憂月は得意げに両手の甲を腰に当てて上体を反る。


「お兄さんは普通じゃない。私も普通じゃない。よって一緒! 証明終了!」

「馬鹿丸出しだから証明とか二度とするなよ」

「えっへっへー」


 そこで笑うのは確かに普通ではない感じだ。


「誰かと一緒だと思うと安心します。普通じゃなくたって、誰とも違うと決まったわけじゃない。孤独なんかじゃない」


 明るい口調だが、その言葉は外側に向けて発せられたものではないような気がした。


 あの孤独に震えた唄声を思い出す。儚く脆い、あの声を。


「きみは仲間に恵まれている」

「バンドのメンバーですか? あの方々はただ優しいだけです」

「それでも仲間だ」

「私はそんなふうには思えません」


 憂月の足取りが少しだけ鈍くなる。


「そう思えないから、いつまでたっても不幸体質なのかも」

「珍しく弱気なんだな」

「墓参りの日はいつもこんな感じですよ」


 そう言った憂月の背中は、とても小さく見えた。




 集合墓地は団地の日陰にあった。高低差のある斜面に雑然と並べられた墓石には、部外者を寄せつけない鋭利さが付随していた。


「お兄さんはここで待っていてください」


 僕は大人しく従うことにした。墓地に隣接する花屋で菊を買ってやると憂月は喜んだ。


 花束を抱えながら分け入るようにして墓地の奥へと進んでいく憂月の姿を遠巻きに眺めながら、さっきの発言の意図を考えてみる。


 セトやナガサキといったバンドの構成員たちを仲間だと思えない――憂月はそのことに負い目を感じているらしかった。孤独を嫌うのに自ら孤独を選ぶ矛盾を、彼女は自覚している。だからこそ自分は不幸体質と呼ばれているのだと、客観的な事実を承認している。


 誰もが幸福になりたいと願う。そのために行動する。そうすることができないのなら、理想と現実の差は永遠に埋まらない。そのことも、きっと憂月は知っている。


 孤独は嫌、というのが憂月の本心だとしよう。それでも孤独を選び、理想を叶えようとしないことに、どんな意味があるだろう。彼女が自分の今際を知りたいと願うことにも、何か関係があるのだろうか。


 我ながら邪推が過ぎている、と思った。ナガサキに言われたことを引きずっているのか、憂月と接しているうちに妙な使命感を抱いてしまっているのか、自分でも確かなことは定められなかった。


 ただ単に、憂月を千世と重ねているだけなのかもしれない。


 どうやらそれが最も正解に近いというのが憎らしくて、自己嫌悪は加速した。




 戻ってきた憂月の様子はいつもと変わらず、むしろ調子を立て直したようだった。結局誰の墓参りだったのかは尋ねないことにした。


 借り物の柄杓を水汲み場の傍に返却して、僕たちは来た道を引き返す。


 行きとは違い、帰りは並んで時折肩を擦り合わせながら歩いた。


「お兄さんは、死後の世界を信じますか?」


 ぽつりと憂月が呟くように問うた。


「そうだなぁ。信じたくないけれど、信じるしかないと思う」

「どういうことです?」

「信じない者には天国への道は開かれないからだ」

「おぉ、宗教っぽいコメント」


 曲がりなりにも孤児院育ちで宗教的な思想に触れることが多かった。天国とか地獄とか、そういうあの世の存在についてもよく話を聞かされた。その受け売りを言ったまでだ。


 より正確には主を信じることなのだけれど、説教臭くなるだろうからやめておこう。


「もしかして何かの信者だったりします? でも信じたくないってことは熱心ってわけでもないのかな」

「実家がそういうのだったってだけだよ」


 孤児院での暮らしはそれなりに厳格なところもあったが、基本はおおらかで独自のルールに近いものも多かった。今でも何が宗教的行事だったか区別できていない慣習もある。それだけ生活の深い部分に根づいていたのだと思う。


 憂月は何やら勘案しているようだったが、考えがまとまったのか軽く咳払いをした。


「私は宗教信者でないので詳しいことはわからないです。でも、信じることで天国に行けるのなら、私は信じなくていいと思います」

「天国に行きたくないのか」

「だって行ったら戻ってこれなさそうじゃないですか、この世に」


 また自己矛盾か、と思いきや違った。これは別の宗教観だ。


「天国がどんなに楽しい場所だったとしても、私はいまのこの世界が好きなんです。いつか私が消えてしまっても、また次の私になってこの世に戻りたい」


 考え方は理解できる。だけどこの世をそこまで肯定できる憂月の気が知れなかった。


 僕に見えている世界と、彼女の見ている世界はまったく反対なのだと痛感する。


「わからないな」


 それが本心だった。


「どうしてそんなに生きたいんだ。どう生きようが、みんな死ぬだろ」

「逆ですよ。みんな死ぬから、好きに生きるんです」

「死んだら何も残らない」

「同意です。過去を洗い流して、生まれ変わります」

「矛盾してるよ、きみは」


 何も残らないのなら、残せないのなら。そこまで生を肯定できる道理が無い。


 憂月は好物ばかりを摘み食いする幼児のようだ。都合の良い思想だけを拾い集めて作り上げた、歪な模造品の命で動いている人形。ひどく脆い、無形のガラス細工。


 そんな彼女が足を止めた。


「お兄さん。私は、死ぬのなんて怖くないんです。本当に怖いのは、自分に言い訳をして現在を生きられないこと。過去に縛られ、未来に怯えるなんてカッコ悪いでしょう」


 それだけ言って、憂月は再び歩き始める。僕はすぐに後を追うことができず、立ち止まったままでいた。


 墓に菊を供える憂月がどんな表情をしていたのか、僕は知らない。それは紛うことなく過去に縛られている証拠であるからこそ、彼女は見せたくなかったのだろう。


 今際の際を知りたがることも、不確定な未来を知っておきたいという思いから来ているのだろう。そうすれば怯えはある程度取り除けると考えて。


 憂月の行動には一貫性があった。ただ、それを支える持論が実現不可能なだけだ。それが彼女の抱く矛盾の正体なのだ。


「誰もが理想通りには生きられないよ、憂月」


 先を行く彼女には聞こえない声で呟く。振り返ることのない彼女の代わりに、僕は墓地のあるほうへ振り向いて、天を仰いだ。


 冬空は変わらず澱んだ色合いで、いつ冷たい雨が降っても不思議ではなかった。

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