第8話 曇天エスケープ
二月になった。大学での講義期間も終了し、いよいよ見舞い以外の用事がなくなってしまった。しかも今日は千世の検査日で面会ができず、僕は下宿先最寄りの喫茶店で暇を潰していた。
ガラス張りの壁面から透けた空は鼠色。三つ隣の席で愚痴を言い合っている婦人たちは部屋干しの憂鬱から逃れるために外出したらしい。このところずっとはっきりしない天候だったのもあり、洗濯物も鬱憤も溜まりっぱなしなのだろう。いっそ雪が降ってくれればいいのだけれど、生憎僕が下宿してきた四年間でここら一帯に積雪はない。
ふと、この四年間に意味はあったのかと考える。高校生の頃から生涯年収なんてものを気にして大学進学を決めた。最近になって、所詮は皮算用だったのだと思う。だけど皮算用でも何十年と先を見据えていなければ、救いようのない窮境に立たされてしまう。
今の社会は「長生きする」ことを前提に作られている。社会保障も生命保険も、自らの未来のために投資すると言えば聞こえはいいが、道半ばで倒れる人にとことん負担を強いる世の中だ。
生涯がいつまで続くかなんて誰にもわからない。途中退場は容赦なく置き去りにされ、決して許されない。だからいつまでも生きられるという皮算用で日々を繋いでいくしかない。僕はそんな社会が大嫌いだった。
僕に見える今際の世界が老人ばかりなら、こんなことは思わなかった。だけど違う、この社会には若くして亡くなる人も驚くほどいる。そしてその大半がまともな最期でないことを、僕は知っている。それらは明らかな自殺だった。
生きるとは何なのだろう。そんな糞みたいな問いを、何度も繰り返している。
◇ ◆ ◇
ガラス越しに街路を眺めていると、憂月が通りかかった。向こうも目敏く気づき、そこから一分も経たないうちに真向かいの座席に腰を落ち着けていた。
「了解も得ずに相席とは、さすが新鋭バンドのボーカルは違う」
「いえいえそんな、新鋭だなんて」
「皮肉だよ」
憂月の義眼は今日も翡翠のように輝いている。普通なら不自然なはずなのだが、彼女の全体像からして不自然さの寄せ集めなので却って調和しているようだった。服装もいつもの黒セーラーではないようだが、防寒具代わりの赤パーカーが普段通りにも見える。
「何の用?」
「冷たいですねえ、お兄さん。ツンデレですか?」
「べ、別に遺伝の法則なんて発見してないんだが」
「それメンデルですよお兄さん」
「二文字あってるんだから実質同じだろう」
「大雑把すぎますって」
店員を呼んでミックスジュースを頼む憂月。ついでに僕もコーヒーをおかわりする。
「最近、お会いしてませんでしたね」
敢えて最近とぼかして言ったのは、具体的にいつからなのかを弁えているからだろう。
あのライブ以降、僕は造花庭園を迂回して病棟へ渡っていた。
「今は就職先の事前研修で忙しくてさ」
軽々と嘘を吐いた。見舞いはほぼ毎日行っている。
「就職されるんですか」
「そりゃあ、学生は卒業するわけだし」
「なんだか不思議な感じですね。お兄さんが社会人になるって」
「どういう意味だ、それ」
確かに自分でも実感が湧かないが、他人に言われるとニュアンスが違ってくる。しかもそれを十代女子に言わしめる僕。小さじ一杯分は情けない。
淹れたてのコーヒーの苦さに顔をしかめつつ、砂糖を追加投入した。憂月のほうは喜々としてストローの先っぽを噛んでいる。行儀が悪い。
「卒業って言ったら、きみもだろ。進路は?」
「芸大に進学が決まってます。AOで」
「なんとなくそうじゃないかと思ってた。受験生って感じ、なかったから」
「どういう意味だー、それー」
「そのまんまの意味だろ」
進学が決まっていなければバンド活動なんてできるはずがない。どういう経緯かは知らないが、受験と並行できるものではないと想像くらいはつく。
それにしても、芸大か。
「僕の妹も芸大志望なんだ。合格したら、同級生になるな」
「へえ! 妹さんですか!」
憂月は強い関心を示したようだった。
「どこの学科志望なんですか?」
「声楽科とか言ってたが」
「私とおんなじです!」
机をばたばたと叩きながら憂月は「いやー俄然楽しみになってきましたよー」と上機嫌になった。この流れで実は血縁関係のない孤児院での義妹だとは言えない。
また余計なことを話してしまったな、と後悔した。こんなわかりやすい個性と才能の塊を義妹と近づけたら碌なことにならなさそうだ。
「それでそれで、妹さんのお名前は?」
「ああ、うん、内緒だ」
「どうしてですかー!」
「害しか及ぼさなさそうだからな」
「ええー……」
オノマトペが浮かびそうなくらい露骨にがっかりされる。なけなしの良心が痛んだ。
「お兄さんはそうやって私を翻弄するんですね。やなヤローです」
「それはこっちの台詞だがな」
「私はヤローじゃないですよ」
「変なところに突っ込むな」
というか、他は否定しないのか。
憂月はテーブル上に散らばった水滴を指先で繋げて遊び始める。体積を増していく雫の玉が光を吸って白く見えたり透けたりした。
今はこうして目の前にいる彼女が、あの舞台で脚光を浴びた少女と同一人物である事実に違和感を覚える。あのときの憂月は遠い存在で、水滴の池を作って喜ぶような親しみやすさは感じられなかった。
「なんでアイパッチしてたんだ?」
自分でも何故それを訊いたのか不思議だった。憂月も左眼を丸くしている。
しまった、と思いカップに口をつけるも誤魔化しは失敗に終わる。
「面白かったでしょ、あれ」
手遊びを止めて憂月は言った。
「あの意味がわかるのはあの場でお兄さんだけだったんですよ」
首筋に氷の粒をぶつけられたような心地だった。
隠された右眼が作り物であることを僕以外は知らないはず。憂月はそう考えてアイパッチをつけていたのだ。
これ以上ないくらいの特別な扱いに、今の今まで気づかなかった自分を恥じた。
「ごめん」
「いいんですよ。伝わらなかったのは残念ですけど」
「……ごめん」
距離をとっていたのは僕のほうだった。憂月は少しでも近くに感じてもらえるように工夫していたのに、僕はそれを無視してしまっていた。
片側だけの視界で諦観を抱くばかりで、現実に存在する距離感を見誤っていた。同じく平面的な世界を見ていると思っていた憂月は、それでも可能な限り眼に映るものを正しく認識しようとしている。
それを才能の一言で片づけてしまうのは簡単だろう。でも、僕にはできない。逃げの一手を繰り返す後ろ姿を晒してきた僕には。
「ちょっと歩きませんか?」
微笑む少女の提案に、首を縦に振る以外の応答が思い当たらなかった。
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