第7話 隔離病棟の眠り姫 後編


 ホールを出ようとしたとき、例の男性スタッフに声を掛けられた。憂月に挨拶したいと言うと、あっさりと許可が下りた。


 ホールの出入り口とは別にある、スタッフオンリーの貼り紙がされた扉の先へ。規模の小さい、学生主体のライブハウスであるため融通が利くのだそうだ。関係者扱いとはいえ思っていたよりもあまり気分の良いものではない。


 辿り着いた楽屋には『ザ・チョークスリーパーズ』と書かれた名札が差し込まれていた。おそらくはこれが彼らのバンド名なのだろうけれど、僕の感性ではお世辞にも秀逸とは言い難かった。


「ダサいだろ、その名前」


 既に丁寧口調をやめていた案内人は、僕の目線の先を見ながら言った。


「うちのリーダーが付けたんだ。作曲はプロなのに作詞とかになるとこれだからなあ」

「……うちの、というのは?」

「見えてなかった? 俺、ドラム叩いてたんだけど」


 まったく気づかなかった。演奏中はずっと憂月以外に意識が届いていなかった。


「人手は足りないし単独ライブだったから前説役も兼ねたんだぜ。八面六臂ってやつ」


 器用な上に難しい言葉を使う。見た目は体育会系で大雑把そうな印象なのに。


 人を見た目で判断するのは良くないという幼少から教え込まれる道徳観も、そうそう定着するものではないらしかった。


 楽屋のドアノブに手を掛け、ひねる前に彼は言う。


「遥斗サン。あの子はあんたが聴きに来てくれたことを喜んでたよ」


 どうしてこのタイミングで、と思った。




 楽屋の中は簡素なテーブルと丸椅子が数個しかなく、そこに茶髪でデザインパーマの男性がひとり座っているだけだった。


「お疲れさんです、ナガサキさん」

「おうセトくん、おっつー」


 ナガサキと呼ばれた男は軽い口調とともに手を振った。同時に案内人の彼の名がセトだということも知る。


「シマネとワカサは?」

「撤収の手伝いに出てる」

「自分だけサボって、いい身分っすね」

「あの眠り姫を独りにはできないだろ」


 そう言って背後を指さす。その先には、焦茶色の古ぼけたソファの上でじっと横たわる少女の姿があった。


「憂月……?」

「その人がカクリちゃんの言ってた遥斗さん? 思ってたのと違うなあ」


 明らかに失礼な発言をされたが、それはどうでもいい。


 ライブが終わってすぐだというのに、どうして今眠っているんだ?


「憂月ちゃん――バンド内ではカクリって名前になっているんだけど、彼女は唄い終わると毎回必ずこうなるんだ。電池を使い切った人形みたいに眠ってしまう。お陰で今日のボーカルデビューまでにはそれなりに時間がかかってしまった」


 ナガサキの説明で腑に落ちる。電池を使い切った人形、という表現があまりに正鵠を射ていたために強い説得力があった。


 あれだけの歌唱の後で何も反動がないというほうが有り得ないとどこかで思っていた。それこそ命を削るような、何かの代償を払わなければ触れられないものを唄として出力しているような危うさが、舞台上の憂月にはあった。


 改めて知る。憂月は特別な存在だ。特別なせいで、たくさんの犠牲を払っている。


 僕のような凡庸な存在の理解が及ばない範疇で、常に戦っているのだ。




「で、きみが会いにきた相手はこうして眠っているわけだけど」


 ナガサキの口調には棘があった。


「なんならキスでもしてみるかい? 呪いが解けて目覚めるかもしれない」

「ナガサキさん、やめてくださいよ」

「冗談が通じないなあセトくんは。それに、俺は彼に言ってんだ」


 向けられた敵意に、僕は何も返せなかった。


「彼女を悲しませたのはきみだろ、遥斗くん」


 責められる謂われはない、と思いたかった。でもあの舞台で、アンコールに応えて唄ったときの憂月は、ライブの終わりを惜しむのとはまた違う、微かな悔しさを滲ませた表情をしていた。その原因が僕にあるというのだろうか。


 あのときの僕の眼は群集する今際の際を映してしまっていた。だからこそ、その中で浮かび上がった憂月の異質さに惹きつけられた。


 彼女には才能がある。人の心を揺り動かす力が、彼女の唄にはある。


 なのにどうして、僕なんかのせいで悲しむことがあるのだろう。


「気にしないでくれ。遥斗サン」


 セトが気遣って椅子を寄越してくる。とてもじゃないが座る気にはなれない。


 思えば楽屋に入る前にセトが一言添えていたのは、ナガサキが責めてくるのを察知していたからではないか。もっと言えば、同じバンドメンバーで憂月の反動についても知っているはずなのに、なぜ会わせることを拒否しなかったのか。


 答えは単純に、セトもナガサキと同じ心情だったからだろう。


「僕に、どうしろって言うんですか」


 怒る立場にないのはわかっていた。


「僕は単に病院で知り合っただけです。その子にしてやれることも、する義理もありません」

「カクリちゃんが何を望んでいるかなんて俺たちにだってわからないさ。ただ、カクリちゃんがきみに何かを望んでいることだけは確かなんだ」


 静かに言うナガサキの声には苛立ちの色があった。


「初対面の相手に言う話じゃないのはこちとら承知してるよ。だけど俺はカクリちゃんの望みが叶ってほしいし、それを踏みにじったきみのことが許せない」


 それだけ彼にとって憂月が大切な仲間なのだと、僕は茹だっていく頭の片隅で理解し始めていた。


 何が私には友達がいない、だ。こんなに想ってくれる仲間がいるのに。


 僕には千世しかいない。それだけで充分で、精一杯なのに。


「帰ります」


 この場にはもう居られなかった。


「憂月の事、お願いします」

「きみに言われなくとも、カクリちゃんは俺たちの仲間だ」


 最後まで、ナガサキは僕に敵意を向けたままだった。




 独りで楽屋を出た僕を、少し遅れてセトが追ってきた。


「すみませんでした」


 見た目に似合わない丁重な謝罪に面食らう。


「俺が許可してしまったばっかりに、不快な思いをさせて悪かった」


 言いたいことは山ほどあるが、全部呑み下す。僕は出る幕のないステージに何かの手違いで立たされた道化だ。口を閉ざし、立ち去るのが筋だろう。


 僕はどうかしていた。舞台上で唄う憂月を間近で見て、勘違いしていた。あの美しい少女と自分との間には、周りとは違う縁がある。だから僕にもできることがあるんじゃないか、と。


 実際には肝心の憂月とは話せず、他のメンバーには責められるばかり。


 何かをしようとしても、どこかでずれてしまう。いつもそうだ。生産性のない空回りで、何の益にもならず、不快感だけをまき散らす。失敗ばかり。僕には誰も救えない。




 ……憂月と、今すぐ話したかった。


 きみは凄いと言いたかった。聴きに来て良かったと伝えたかった。


 そして何より教えてあげたかった。


 あの最後の曲で、初めてきみの今際の際が見えたんだって。


 だけど全部、僕の口から告げることはもう、ないんだろう。

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