第6話 隔離病棟の眠り姫 中編


 ダンジョンに挑むような心持ちで石の階段を下りた先にあったのは、これも日常から遠ざかった漆黒の重々しい扉だった。


「あんた、遥斗サンだよね」と、案内人の男に名を呼ばれたときは肝が冷えた。憂月が僕の特徴を伝えていたらしく、駅を降りたあたりから追跡の上先回りまでされていたというから驚きだ。そこは大学生ならではのフットワークと言うべきか、非効率極まりない気がする。


 低い天井、狭い通路。購買所に並ぶグッズの数々と、壁に連なるサイン入り色紙。知らない環境、知らない名前がこれだけ連なっていると、掛け値なく思考が停止する。


 少しの後、僕を置き去りにしていた案内人の男が戻ってきた。無地のポロシャツに着替え、頭に『Hey音峯寺』と入った濃紺のタオルを巻いている。ひと目でスタッフだとわかる風貌だ。


「あの子からチケットは貰ってる? それ持ってあっちね」


 彼に促されなければ足は動かなかったことだろう。示された受付を通って、チラシと一緒に渡された薄くてぎざぎざした用紙を切ってもらう。そこでようやく自分が異境に迷い込んでしまったと実感する。


 ホールに入る。室内の熱気が質量を持って肩に乗るのがわかった。薄暗く、閉鎖された空間に大人数が集まったとき特有の、薄い酸素と混濁したにおいがまとわりつく。呼吸ひとつひとつを意識してしまい、逆に息苦しさを覚える。


 周りはこの環境に慣れているかもしれないが、僕は音楽系のイベントなんて数えるほどしか行った経験がない。その数回も、全て千世に連れられて行ったコンサートくらいだ。こんなアンダーワールドに足を運んだこと自体、僕にとっては冗談みたいな話なのだ。


 これじゃあ気晴らしにもならない。どうして軽くライブを見に行くなんて言ってしまったんだろう。完璧に嵌められた。帰りたい。


 案内人の彼も近くにはいないみたいだし、隙を見て脱出しようか。そう思い立つと同時にホールの扉が閉じられた。今日はつくづく運がない。




 ステージの上で誰かが話し始めた。知識としては覚えがあったが、あれが前説というやつか。テンションの高さが絶妙で、場を一段ずつ確実に盛り上げていく。よくよく見てみるとさっきの案内人、タオルを巻いた彼だった。


 その彼が一連のトークを終えた後、ホール全体の照明が落とされる。


 沈黙する会場。数秒後、ぼわりと舞台上のライトが点灯した。そして息を呑んだ。



 純白のワンピースの少女が、そこにいた。



 透明な結晶のごとく清浄な佇まい。山紫水明に器を与えたかのような美しい容貌と、不協和を生じさせる右眼の黒いアイパッチ。


 人目を惹きつける出で立ちに、場が一同に静まり返る。


 祈るように両手でマイクを握り、少女――白野憂月は唄い始めた。



    星のかけらを 覚えていますか

    いつか 手をつないだ日の事

    忘れないでと 約束をした

    なのに きみはどこにもいない――



 前奏も伴奏もない、たったひとりの歌唱。


 無情なほどの脆さと、泣きたいくらいの孤独。


 ガラスの橋を裸足で渡るような、繊細なウィスパー。


 誰もがその音に耳を奪われ、言葉を失っていた。観衆が期待していたものを裏切ったのは間違いないだろうが、それを帳消しにして余りあるサプライズのように思えた。


 一曲を唄い終えた後、会場は異様な空気に覆われた。拍手が半分と、すすり泣きが半分。いくら僕でも、これがロックバンドのライブの雰囲気でないことくらいはわかる。あの歌唱力にそれだけ人の心を動かす力があるとして、この舞台に起用するにはお門が違いすぎる。


 拍手が止むと、ステージの照明が追加で点灯した。バンドのメンバーが四人、姿を現す。それぞれが所定の位置に立って、早速前奏が始まる。ポップシーンでよく聞く明るめな旋律だったが、憂月の声に合わせて抑揚に気をつけているのが素人の僕にも伝わってきた。


 演奏が付くと独唱とはまた異なる響きを得る憂月の唄声。メロディに乗って聴く者の奥まで浸透していく。心地よいままに内側から感傷を癒し、高揚感を湧き立たせる。


 技術については門外漢の僕では何も言えない。けれど個々の演奏が高いレベルであることは周囲の盛り上がりからも明らかだったし、気づけば僕自身も交ざって手を振り上げたりリズムに乗ったりしていた。


 始まるまでは想像だにしていなかった。僕がこんな経験をするなんて。



 間奏の途中、憂月と目が合った。満面の笑みで手を振ってくる。……いやそれはまずくないか?


 案の定、周りの観客が笑顔の対象を探し始める。俺だ私だと主張する者が続出。まったく、デビュー初日だというのに随分な人気者になったものだ。



『みんなありがとう! 次、いくよー!』


 快活な声と共に始まるナンバーは、跳ね回りたくなるようなロックチューン。音楽に合わせて無意識に身体が揺れる。すると前髪が舞い、汗をまとって肌に貼りついた。そして額の汗を拭うタオルを持ってこなかった不用意さを後悔した。


 右眼の視界が広がる。映った景色がどろどろに濁り、陰気な感情が甦る。



 見渡す限りの、命の終末。



 急激に身体から熱が失われていく。観衆から遠ざかり、ホールの末席で壁に背を委ねた。身体が土嚢のように重々と感じられる。それでも蔓延る空虚さは堰き止められなかった。


 どんなに今を楽しんでいたって、いつかは皆これになる。一時の高揚に身を任せるのは逃れようのない結末に目を背けるためだ。酔えば苛酷な未来を忘れられるからだ。


 舞台上の憂月だけが潔白だった。ワンピースの裾を短く結び、振り乱しながら唄っている。この空間の熱気を先導しているのが彼女であることは疑いようもない。


 だが憂月が生存を主張すればするほど、周囲との異質さが明るみに出る。命を宿さない人形であることが証明されてしまう。だってあの少女には、この期に及んでも死がなかった。そこに在るのに、どこにも命の気配がしない。残酷な話だと思った。


 題目の曲がすべて終わったため、メンバーは舞台奥へと移動する。少し後れてアンコールの声が彼らを呼び戻し、同じ場所に配置させる。どこかで見たような、ややぎこちない予定調和。


 再びマイクを握った憂月は悲しげだった。


 小さく息を吸う音がして、またあの孤独が始まる。

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