第10話 季節は死んでゆく

 梅の開花が目だち始めた頃、千世の病室を引き払うことが決まった。現状の治療では病態改善が見込まれないため、千世自身が転院を決めたのだ。僕は以前から伝えていた通り、千世の意思に口出しは一切しなかった。


 病室を発つ日、幾度となく入った個室は私物が片づけられたうえに消毒液のにおいが広がっていた。千世がそこにいた痕跡を徹底的に失くしたかのようで、最後まで僕はこの病院を好きにはなれなかった。


「浮かない顔だね、遥斗兄さん」


 佐久間さくま沙智さち――孤児院の義妹が僕の表情を横から覗き込んできた。


 この春、芸術大学への進学が決まった沙智は今、入学手続きや諸々の新生活準備のため僕の自宅に滞在していた。千世とも知らない仲ではないので、着替えなどの僕が頼まれづらい要件を代行してもらっている。


「治ったわけじゃないんだ。気持ちも晴れない」


 看護師の女性が病室の扉の横に掛けられていた台紙の名札を取り出して、くしゃっと丸めてビニール袋に捨てた。僕はその一部始終を眺めた後、小さな溜め息を吐いた。


「兄さんはストレスを感じるとすぐ顔に出るよね。わかりやすい」

「そうなのか?」

「うん。千世姉さんはそういうとこが可愛いなんて言ってたけど、あたしは心配だなぁ」


 だって社会に出たら不利でしかないよ、と沙智。


 説教臭いところは孤児院の牧師に見事に影響されてしまっており、加えて年功関係なく物申す実直さは昔から変わらない。僕にとっては彼女のほうが社会に出たとき上手に渡っていけるのか心配だった。


 しばらく沙智のお小言を軽く聞き流していると、音もなく病室の扉が開いた。現れた千世はゆったりとしたワンピースにカーディガンを羽織っている。久々の私服でお洒落がしたかったのだと、先に沙智から聞かされていた。


「似合ってます、千世」


 率直に褒めるのは気恥ずかしく、無意識に握りこぶしを作ってしまう。


 そんな僕の様子をどう察したのか、千世は両手を胴の前で組んで笑んだ。


「慣れないことはしなくていいのよ。でも、嬉しい」


 千世はお世辞と受け取っただろう。沙智の入れ知恵だと早合点したかもしれない。


 普段から僕がもっと素直に言葉を掛け続けられていれば、そんな小さなすれ違いも起こらずに済んだのだろうか。そうやって過去の誤った選択を悔やまずにはいられない。


 そのうえ転院を決めた千世の選択さえ信じ切ってあげられないでいる。僕は世界中で一番情けないやつだと、本気でそう思った。



  ◇ ◆ ◇



 いつもの場所に憂月は居なかった。でも不思議と、もう会えないとは思わなかった。


 おそらくは見納めになる造花庭園の色彩を記憶に留めようとすると、憂月の姿までも自動的に想起されて投影された。それはこの庭の一部として彼女を認識していた証左だった。


「綺麗なお庭だね」


 誰に言うわけでもなく、沙智が呟いた。


「でも全部造花なんだね。本物みたいなのに」

「本物じゃなくても、綺麗なら本物と変わらない」

「なにそれ」

「感傷的になってるだけだよ」


 怪訝な顔をされたが気にはしない。


 枯れない花は偽物か、なんて問おうとは思わない。どこまで本物に似せて造ろうと、命の宿らないことを僕は知っている。命のないものに死期はないのだから。


 綺麗なものは儚いから綺麗なのだとどこかで聞いた。なのに僕らはこの庭園を美しいと感じる。有限の生命を持たずとも、悲しい終わりを控えていなくとも、偽物だったとしても、この感性は嘘を吐かない。


 だからこの花々の美しさは本物だ。


 命がなくとも、本物だ。




 千世と沙智を待合室のベンチに座らせ、僕はひとりで退院手続きを済ませに受付へ向かった。そこで制服姿の憂月と鉢合わせる。


「卒業式の帰りなんです。この制服を着るのは、今日で最後」


 肩にちょこんと乗った梅の花びらは、小脇に挟んだ証書の筒よりも雄弁にひとつの節目を語っている。摘んで見せてやると、憂月はくすぐったそうに頬を緩めた。


「僕も、ここに来るのは今日が最後だ」

「なんとなくそんな気はしてました」


 憂月もまた、これで今生の別れだとは思っていないのだろう。普段通りの関わり合いをする方針が固まったところで、憂月が言った。


「結局私の今際の際を教えてはくれませんでしたね」


 茶化すような口振りで、残念そうに首を傾ける。とぼけた身振りが少し可笑しかった。


「お兄さん、本当は今際の際なんて見えてないんじゃないですか?」

「どうだろうな。何にせよ、余計なことを知らないで済んで良かったじゃないか」

「本気で知りたかったのに。ひどいですよ、お兄さん」


 冗談めかしたやり取りのなかで、密かに挟まれる本音。彼女は自分が終わる時をどうしても知りたかったのだろう。結果として同情してしまったのが油断に繋がった。


 思い出さないと決めていたあの日のステージが、勝手に脳内のスクリーンへ上映される。


 唄う少女が浮かび上がり、そこに重なるようにして今際の際が透写された。


 それは、群青。


 深くて昏い、真っ黒な海の瓶底。


 白い少女の姿はそのままに、ただ佇んでいる。


 唄はあぶくとなって闇に吸い込まれ、誰にも届かない。


「憂月は、特別なんだよ」


 今はそれしか言えなかった。こんな抽象的な場景を見るのすら初めてで、これが現実に起こり得るとは思えない。ただの幻覚として捨て去るのが最良なのだろう。


 だがそれを憂月に伝えてはいけないと、ライブ後の眠る彼女を見たときに僕のなかで決まってしまっていた。他に類例のない幻想的な映像だったからこそ、逆に予感してしまったものがあったからだ。


 白野憂月は近い将来、孤独に死ぬ。


 どうやらそのことだけは間違えようがないとわかってしまったのだ。


「また会いましょう、お兄さん」


 あっさりと再会の約束をして、憂月は病棟の奥へと去っていく。試みに右眼で覗いてみてもその姿は変わらなかった。


 手のひらの上でひとりでに梅の花びらが躍った。右眼で捉えても別の映像が重なって見えないのは、それが既に命を失っているのだと容赦なく証明している。


 憂月はこの花びらと同じなのかもしれない。もう死んでいるからこそ死がない。だから普段は今際の際が見えない。唄うことによって命が吹き込まれ、抽象的な今際の際を作り出す仕組みであったりはしないか。


 それはただの妄想にしては信憑性の足る結論であるように思えた。


 けれど同時に悲しい幻想であるとも思った。




 美しき生命の残り滓に別れを告げて、ゆく。


 冬が完全に死に絶えるのを待たず、春の死は既に始まっている。

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