第6話 1年354日

 暦の話をしようと思う。


 現代社会で私たちが遭遇する暦は殆どがグレゴリオ暦で、稀に旧暦だろうが、もう一つ近年遭遇率が上がっている暦がある。

 イスラム教の宗教暦である「ヒジュラ暦」だ。

 預言者ムハンマドがメッカからマディーナへ移住した年を元年とする暦だが、この暦の特徴はなんといっても「太陰暦」、それも純粋な「太陰暦」であることだ。


 先に述べた「旧暦」が「太陰太陽暦」で、ひと月の長さを月の朔望で、一年の長さを太陽の運行で決めていたのに対し、純粋な太陰暦では一年は単純に12朔望月である。

 平均朔望月が29.5日であることは既に述べたし、それを12倍しても354日にしかならないことも述べた。つまり太陽暦の1年より11日ばかり短いわけだが、ヒジュラ暦ではこれをどうするのか?

 どうもしないのである。

 ヒジュラ暦の暦年は、太陽年とずれていくままに任せ、修正しない。ヒジュラ暦とグレゴリオ暦を比較すると、毎年約11日ずつずれていき、約33年でその差が1年分に達する(ヒジュラ暦が33年進む間にグレゴリオ暦は32年しか進まない)。

 これでは暦月と季節が全く一致しなくなるが、この暦はなのである。


 イスラム教では毎年第9の月〝ラマダーン〟を断食月と定め、日中の断食を行うわけだが、この期間はグレゴリオ暦から見ると毎年11日ずつずれていくように見える。ラマダーン月の断食は2018年現在はグレゴリオ暦の5~6月にかけて行われるが、10年後には2月頃に行われている計算になる。


 宗教暦としてはともかく、農業にとってはこの暦はあまり適していないため、日常的にはグレゴリオ暦やその他の太陽暦(ペルシャ暦)と併用されているようである。イランではキリスト教由来のグレゴリオ暦、イスラム教由来のヒジュラ暦、古代ペルシャに源流を持つペルシャ暦(太陽暦)が併用されているそうな。


 イスラム教を国教とする国では、政府の公式な暦としてヒジュラ暦が採用されていることがあり、その場合法律の制定年月日から年月日の数え方までヒジュラ暦がベースとなる。よく知財権回りで解説されるように、サウジアラビアにおいては特許等の知財権の保護期間が、グレゴリオ暦ベースでの保護期間よりも短くなるケースがある、とされるところ。アラブ首長国連邦では日常的にグレゴリオ暦を使いながらも祝祭日はヒジュラ暦に基づくため、毎年祝日の日付が変わる、なんてことが起こるとか。


 暦は確かに天文学や物理学、数学に基づいて計算されるのだが、しかし一方でどうしようもなく政治的・宗教的な権威によって決定されている。当たり前のことだが周期的運動である自転や公転に始まりや終わりを決めるのは、人間の恣意に基づくしかない。

 現代日本社会ではグレゴリオ暦がキリスト教、それもカトリックの宗教暦であることを意識することは稀であると思われるが、そのことをどうしようもなく意識せざるを得ない社会もまた、この世界の中には存在している。

 そういった事情を意識する必要がない社会は「楽」である一方で、時にとんでもないやらかしのもとになりかねないと憶えておいて欲しい。


 そして暦には必然的に「権力」がまとわりつくということを。

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