第5話 貞享元年十月二十九日

 暦の話をしようと思う。


 古代中国に源流を持ち、日本でも明治五年までは公的な暦であった「旧暦」は「太陰太陽暦」というグループに属する暦だ。中国では現在も「農暦」として使用されており、〝春節〟所謂〝旧正月〟を祝うのを知っている人も多いと思う。

 この暦の特徴は、①ひと月の長さは月の満ち欠けで決める(新月が一日)②一年の長さは太陽年に即する(冬至を十一月とする)、という二つの天体の運行に即しているところだ。現代日本で普段使われているグレゴリオ暦は、月の運行とは無関係で、太陽としか関係しない太陽暦。それに比べると非常に複雑になる。

 月の朔望の周期は平均すると約29.5日だが、これを12倍しても354日にしかならず、太陽年の約365日に対し約11日不足する。これらの差について、古代からの観測によって19太陽年が235朔望月にほぼ等しいことが知られていた。235=(12×19)+7であるから、19年の間に7回の閏月を挿入することによって、太陽年との差を吸収するわけである。


 しかしそもそもなんでそんな面倒な修正を入れてまで月の満ち欠けに暦を合わせたのか、現代の太陽暦一本槍の生活で不自由していない身からすると疑問に思うところもあるわけだが、電燈などがない時代、夜間の活動は月の明るさに大きく影響されていた。日付を見れば月の朔望がわかるのは夜の明るさを知ることができたわけである。例えば赤穂浪士が吉良邸に討入った十四日の夜は、月が明るい夜だったと推測できる。

 また、潮の満ち引きは月の潮汐力の影響を受けるため、一日(新月)、十五日(満月)の夜は大潮になるし、逆に八日(上弦)、二十三日(下弦)は小潮になる、と日にちと潮の状態が連動するのも、漁業や水運関係では重宝されたことだろう。

 逆に夜空の月を見れば日付も分かるため、江戸時代に出版されたカレンダーの中には、月の大小だけを表した「大小暦」というものが多く見られた。細かい日付まで一々印刷する必要なかったようである。(月の大小の並びは毎年違う)


 そういったメリットの反面、一年が12ヶ月だったり13ヶ月だったりするので、太陽の運行と密接に関係する季節とは一~二ヶ月程のズレがつきまとうことになる。〝何月何日〟という日付が毎年実際の季節とズレるのは、農作業にとっては重大な問題になる。

 そこで月の運行とは別に太陽の運行を24分割する〝二十四節気〟が季節の指標として利用された。童謡「茶摘」にある〝八十八夜〟というのは二十四節気の一番手、立春から88日目、という歌だったりする。


 とまあこのように、所謂「旧暦」は太陽と月と地球という三つの星の複雑な関係を見事に消化して一つの暦に盛り込んだ大変高度かつ緻密な暦であり、また誤差等の問題から常に観測による修正が必要な手間のかかる暦であった。

 天文学の知識、精密な観測、そして数学の計算能力を必要とし、誰もが簡単に作ることができるものではないこの暦を、古代中国の皇帝は知識や技術を掌握して支配したのである。このような暦を作る技術が、春秋戦国時代には成立していた古代中国の先進性には驚くほかない。日本がその暦を輸入して利用していたのもむべなるかなといったところ。

 日本が独力で太陰太陽暦を編纂できるようになったのは、江戸時代に入ってから。貞享元年十月二十九日、渋川春海の手になる貞享暦を嚆矢とする。

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