第60話 線香の香り
「ベルネはそれからどうなったの?」
二玖の質問に、シロタさんが言った。
「戦争が終わってもベルネはフランスに戻って来なかったの。ただ、日本で過ごした日々の記録が綴られた日記が、フランスの、ベルネの実家に届いた。それを頼りにベルネの弟は日本に来たの。そして日本に居ついた。それがわたしの祖父です。そしてその息子は日本で胡散臭い宗教を開いた。それがわたしの父、ということ」
…『礼奉礼会』は、光のない石室だった。
「古墳の内部にも似ている」
岬青年が周囲を見回しながらつぶやく。確かに、大きな石がいくつか組み合ってひとつの空間を作っている。まるで王の棺を納める石室だ。
「わたし、お妃だったのかしら」
シロタさんがちんぷんかんぷんなことを言う。
「あなたは今、伝道者だ」
多古田さんは真面目な顔で答える。
「らいぶらいえ、らいぶらいえ、あんめんあんめん」
シロタさんが唐突に唱えた。
「らいぶらり、らいぶらり」
岬青年も二玖もそれに続く。
「リベルテ、リベルテ」
口々に唱えた三人の声は、どれもが似たような音となって、地中礼拝堂に反響する。
封じられた礼拝堂で、唱え続けられたというその声は、聞いた者の耳から消えなかったのだろう。洞窟内で反響し、音は歪み、ライブライエ、ライブライエ、アンメン、アンメン。それがフランス語で、リベルテ、自由、だったなんて誰にもわからなかった。本当は何と言っていたかなんて問題ではなかった。いなくなった者たちの、最後の祈りが聞いていた者たちの耳に、聞こえるままに、聞こえたのだから。
多古田さんは静かに説明を続ける。
「この場所で父親や母親を失い、目前で起こった悲惨な出来事を誰にも言うことが許されない。そんな生き残りの幼い者たちの耳にずっと残ったリベルテは、ライブライエとなり、礼奉来会となった。長い年月を経て、礼奉来会がどこにあるのかわからなくなり、ただそれは祈りの記号として存在し続けた。そして、口封じされたキリシタンたちは、真実を見失ってしまう。そこに新たに、外から与えられた言い伝えによって自分たちの中に罪悪を創造した。地中の採掘場が崩落した理由。それは自分たちのなかに踏み絵を作る者がいたからだ。その行いが神の怒りに触れ、採掘場は崩落した。誰かが考えたそんな作り話が、まるで真実のように語り継がれ、他言を禁じられるようになった」
ふいに頭上から独特の匂いが漂ってきたことに二玖は気がついた。
お線香の香り。
二玖は咄嗟に洞窟の出口の方向を見上げた。
「ちょっと、見てくる」
入口から頭を覗かせると、生垣の至るところから細い細い煙が立ち昇っていた。
「お弔い」
祖母が立っていた。
「ここで死んだ、たくさんの人。ここに眠るたくさんの人」
「おばあちゃん……、どこにいたの?」
二玖の言葉を遮って、祖母はさらに続けた。
「お弔い。ここに埋まった、」
祖母が、泥だらけになった燃え屑のような布の端っこを、手に握り締めていた。布切れに見えたのは紛れもなくあの絵だった。わたしが模倣した、そっくりに写し取り本物を埋めた、あの絵。まるで始めからこれしかなかったというように堂々と額縁に収まっている、あの絵。燃やされ、埋められなければならないのは、わたしの、偽物の絵なのに。
足が震えるのをどうすることもできなかった。
「ごめんなさい、」
二玖はおばあちゃんの背中に向かって謝った。この言葉で合っているのかどうかさえわからない。言葉は込めた意味のことばになる。
あの日。
おばあちゃんの部屋の隅に丸められたキャンバスは広げるとどこまでも奥行きがあった。油絵の具のむっとした匂いに反して視界に広がる世界に裏切られた気持ちにさえなった。なんて優雅な、緑。
写してみようと思ったのは誰だろう。燃やして、ここに埋めたのは誰だろう。生垣なら全てを隠してくれる、そう思ったのは。
祖母は知っていた。ここに埋まる全てを。
──ベルネが日本で暮らし始めて八年後、太平洋戦争が始まった。日本はまた国のかたちを変えていった。敵国の人間はスパイ容疑をかけられ捕らえられた。当時ようやく認められつつあったキリスト教はまた、迫害を受け始めた。敵国の信じる、宗教だから。
──そのとき赤く燃え始める火の手に気がついた。
「ねえ、あれ、線香の火が木に燃え移ったんじゃないか。ほら、火が上がってる」
事態の大きさに気がついたときはもう遅かった。一週間前の雨以来、真夏の日照りで乾燥していた庭の、水分は殆んど失われていた。
「水ならある」
パッチワークのような家。ときにうまくピースがかみ合わなくて、別の模様の、別の素材でできたピースがぴったりくることだってある。それにその隙間が思わぬ役に立つことだって。
──開いたままのお風呂場の窓。水ならある。
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