第61話 夏の終わり
二玖は窓からどうにかお風呂場へ入って、ホースを外側へ引き出した。
火は幸いにもすぐに消し止められ、生垣の部分的な欠損にとどまる。
おばあちゃんは、生垣に沿って日々、迷路を行き来するうちにどちらが外側かわからなくなってしまったのかもしれない。自分が守るべき側の人間か、あるいは脅威を与える側の人間か。
それは一体誰のことを言っているのか、という問いも同時に発生していた。
命を救うはずだった人間を無残な実験台にしたおじいちゃん。
あまりにも美しい絵を目にした自分が不意に起こした非道な行動。
守るべきものを守っているはずだった。
その守り方が、途中から間違っていく。
人間の内側にある意識や無意識、それぞれを分断する境界線。注意しないと、それはちょうどこの生垣のようにいつのまにか内側を持ち始めてしまうのだ。
何がどうしたら、どれが、表面に現れるのかわからない。ただ言えるのは、もしもへこみがあれば決して埋めてはならないということ。自分の眼で確かめる。一体なぜそこが塗り固めても塗り固めてもへこむのか確かめる。
後日。
例の葉書をもう一度眺めていた。
ハガキの筆跡は、シロタさんが見せてくれた、シロタ=ベルネのものとよく似ているようにも思えた。ベルネの書いたであろう文字は、シロタさんが解読した日記にも、それから辞書のなかにも残されていたから。
『私立図書館』の蔵書の中に、シロタさんの探していた仏和辞書を見つけたのはわたし、ふくろうオウルだった。ラベルにはよーく見ると、蔦の模様に紛れるようにふくろうが一羽こちらを見ていた。
『かえして ください』
返してほしいのはこの辞書。それとももしかしたらあの白紙のスケッチブック。
この家の「かみさま」だったベルネが、戦後、どうなったかは結局誰もわからなかった。
「いずれにしても生きていて、またここへ来ることだってありえるわね」
表紙がボロボロになってしまったその分厚い仏和辞書はベルネの手を経て、日本へ渡り、この家の書棚で長い沈黙を守っていた。
一体、誰が、何を返してほしかったのか。
『かえしてください』
夏の終わり、二玖の手にはまだ、夏の初めに庭で拾ったハガキがある。
古い紙の匂いなんだろうけれど、少し懐かしくって、そうだ。ほのかに、コーヒーの香りがする。そう、私立図書館の匂いだ、と思い当たる。
「この葉書からコーヒーの匂いがするの」
「へえ」
母はふわりと笑った。
「自分だけの図書館があって、いつでも行けたら素敵ね。それも、おいしいコーヒーの飲める喫茶室のある、」
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