第58話 シロタ パジェス
一六二〇年、日本では江戸幕府による治世が始まっていた。
宣教師シロタ=パジェスは本国フランスより日本の小さな港に到着した。
鎖国はこの約二十年後に政策として本格化される。この時、外国人にとって日本はまだ比較的自由に入国することのできる場所だった。
彼の目的はキリスト教徒を探すことだった。迫害されつつあるというキリシタンに正しい教えを授ける。
重願寺の宿坊に辿りついたのは偶然だった。夕刻、今晩泊めてもらう宿を探していたところ、簡素で、それでいて美しい菜園を見つけ、つい中へ入ってみたくなったのだ。
「コンニチワ」
日本語はほとんどわからなかった。無謀だと本国でも散々言われたけれど、布教は使命だと思っていた。
菜園で作業中だった一人の若者がわたしに近寄って来た。わたしが異国人であるとわかると彼は顔色を変えた。間もなく建物へ案内され、わたしは周囲に集まった者たちにどうにか身振り手振りと、知り得る日本語で尋ねた。
「バテレン、バテレン、…キリシタン、キリシタン、」
バテレンやキリシタンは、キリスト教の日本での呼び方だと事前に知っていたから、わたしはそう言い続けた。
集まった者たちは一様に顔を見合わせ何か迷っているようだった。
ひとりの老人が前へ出て私に小声で言った。
「ここの者は皆、キリシタンだ」
自分が宣教師であることを告げると皆の不安そうな顔が一様に明るくなり、喜んで私を歓待してくれた。
それから、菜園の中の宿坊に私は身を寄せることとなる。
菜園内には野菜のほか薬草も種々様々に栽培されている。聞けばこの辺りは、元々西洋人の手による薬草栽培がなされていたとのこと。重願寺は信長統治時代に南蛮寺(当時の教会)となった。しかしキリシタン禁令後、迫害の標的にならぬよう、表向きは仏教寺の姿に戻りつつ、密かに、キリシタンを多く抱えていたのだった。数年前、幕府によって、キリシタン禁教令が発令されたことは耳にしていた。彼らの根気のよい説明によると、市中では激しいキリシタン弾圧が繰り広げられ、処刑者も大勢出ているという。
パジェスはこの地で丸一年を信徒と共にすごした。
ある日の深夜、寝付けず菜園に出ると大勢の僧たちが静かに列を成しどこかへゆくのを目にした。
パジェスがこっそりついてゆくと人々は地中に吸い込まれるようにひとりずつ消えていく。
最後尾の者に付いてパジェスも中へ入った。信者たちは一瞬、初めて会った日と同じ不安の表情を浮かべた。信じてもよい者かどうか一瞬計るような目をしてパジェスを見、そこが古くから存在する深い洞穴の礼拝堂であることをパジェスに初めて打ち明ける。彼らはまだ夜の明けぬうちからそこで祈りを捧げる習慣を持っていたのだ。
初めて信者と共に洞穴で祈ったその日、パジェスは信者たちに言った。
「ヴゼット リベルテ イシィ。ヴゼット リベルテ デ プリエ。(あなた方はここでは自由です。あなた方は自由に祈る)」
何とか彼らに思いを伝えると、彼らは、リベルテ、リベルテ、と真新しい言葉を声に出してみてはその意味を噛締めているようだった。
それからさらに一年が過ぎた初夏のことだった。
その日は猛烈な雨だった。明け方、強まる雨足は信者たちに洞穴から出ることをためらわせた。
パジェスは一足先に地下礼拝堂から出てきていた。
入れ違いに、見知らぬ人々が礼拝堂へ向かうのを宿坊から見ていた。何が始まるのかすぐには理解できなかった。新しい信者たちだろうか。そんな呑気な考えに至っただけだ。
それは、役人の集団だった。キリシタン狩りをする役人が、密告者からの情報を得て、礼拝堂を探し当てたのだった。
役人たちは礼拝堂の入口に陣取り、中に居る信者たちに棄教を迫った。しかし誰一人としてそれに応じる者はいない。
洞窟の出口は頑丈な岩によって塞がれた。棄教を考え直せば開けてやる、そう中にいる者たちへ伝えられた。
それから何日も、壁の向こうでただ一途に祈りの自由を唱える声が響いていた。リベルテ、リベルテ、アーメン、アーメン。リベルテ、リベルテ、アーメン、アーメン。
ずっと、雨だった。
いつしか、何の音も聞こえなくなった。約百名にのぼる信者の遺体は礼拝堂に放置され、地中で息絶えた信者の子や孫まで根絶やしにされた。
一連の出来事は他言を禁じられ、洞窟周辺には、浜辺から運ばれた砂が高く均一に盛られ、洞窟の入り口も、洞窟の存在自体も、なかったものとされた。パジェス自身も棄教迫られ、日本より追放された。
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