第55話 入口のありか

 


二玖は夕暮れの生垣の中を歩いていた。


 祖母がいなくなって一週間。

 今のは祖母の後ろ姿ではないかと、人ごみで立ち止まったり、曲がり角を引き返したり。この庭でだって、全然まともに歩けない。

(あ、でもここは始めからまともになんて歩けないんだった)

 そう気がついて、強ばっていた肩が緩む。


 真夏になり、むせかえるような暑さで、二玖が春に植えたどの花もただの雑草のように緑色の葉っぱの塊りに変わっていた。


「これじゃ何の目印にもならない」


 実際二玖は、緑の壁のなか、ちょっと目に付く植物を知らぬうちに目印にしていた。例えばおだまきの花は青紫で、足元でちょこんとランプを灯すように咲いている。

(ここを曲がると母さんの店にたどり着く)


 アカメという、葉が真っ赤な生垣の通りは、その先二股に分岐するが、そのままアカメが続く方は家の方向。まきの木に変わる方はじきに行き止まりだ。


(これ、おばあちゃんにも役に立っていたかもしれない)

 二玖はそう思い当たる。

(ほら、入院中のお年寄りが自分の病室にちゃんと帰れるようにドアの取っ手にリボンを結んでおくみたいに)


「変化のない景色には目印が必要だ」

 生垣の中を歩くときは自然にひとりごとが口をつく。


おだまき、さざんか、さざんか、おだまき、すみれ。

あかめ、あかめ、まきのき、ゆきのした


おだまき さざんか さざんか おだまき すみれ

あかめ あかめ、まきのき、ゆきのした

やっとみつけた


やっとみつけた

 

「変化のない景色には目印が必要だ」


 おばあちゃんには生垣の庭が迷路になってしまっていた。

どこに何があるかわからなくなっていた。何があるって何にもないんだけど、おばあちゃんは知っていた。この庭に隠された大事なもの。でもそれがどこだったかわからなくなってしまって、それでずっと探してた。


 ──もし、そうだとしたら。


 二玖は祖母が唱えていた順番を頭の中で反芻し続けた。


 (おばあちゃんは思い出した場所に何度でもまたたどり着けるように頭の中で地図を描いていたんだ)


 おばあちゃんが唱えていた通りに植物の並ぶ場所。


 おだまきを植えたところから二本のさざんかを経て、もう一度おだまきが植えられている。ここにすみれがあって、アカメ、アカメと続き、槙の木が一本あり、その根元にはユキノシタ。7月には咲き終えたはずだったのに、真っ白なつぼみをつけている。


そこは、二玖自身が開けた生垣の刈り穴の前だった。


「あなたも見つけたの?」

 石畳の向こうからシロタさんが歩いて来て言った。


「わたしはあなたとは別の方法でここを見つけたの」

ふっくらしていた二の腕は痩せて引き締まり、それから少し髪の毛の嵩も落ち着いていた。


「わたしね、フランスへ行ってたの」

「それはまた、遠くへ」

「フランス語を初めて使ったの。ボンジュール、ボンジョルネー、って。」


 発音は日本語的だったけれどシロタさんは陽気な旅行者の顔をしていた。

「エッフェル塔、凱旋門、シャンゼリゼ通りからパリ中を散策したの。そうしたら、なぜかこの生垣のことを思い出したの。歩く場所が違ってたんだ、って気がついた」

野生を取り戻したうさぎのようにシロタさんの髪の毛がぴん、と逆立つ。


「石畳の通路は世界と世界の隙間にすぎないの」

陽気な旅行者が急にいつかの哲学者になった。


「どういう……、」


 意味ですか、と尋ねるのを遮ってシロタさんは話しを続けた。


「生垣は決して線には成り得ない。境界という世界そのものにはなっても鉛筆で引いたような線にはなれない」


 シロタさんの言った意味を頭の中で考える。


「必ず内側を持ち始める」

そこまで言うと、シロタさんは姿を消した。


「どこ?」


「ここよ」

シロタさんは生垣の中にいた。二玖が開けてしまった刈り穴のなか。葉っぱの縁取りが、まるで額縁のよう。


「ここはきっとどこまでが守るべきもので、どこからが脅威なのか常に迷う場所なのよ。迷ううちにどちらから来たかわからなくなってどんどん大きく膨張していく。いつのまにか脅威をも呑み込んで──」


シロタさんの声は一区切りごとに遠退いていく。

「シロタさんどこ」


「見知らぬ街でね、初めて道に迷ったの。自分がどこにいるか、わからなくなるってとても新鮮だった。細い路地で見上げた空は細長くって自分が今いる場所と同じ形になるんだなあって、思ったわ。世界と世界に挟まれているかたち」


 山茶花さざんか、イチイ、オリーブ、夾竹桃きょうちくとう、レッドロビン。


「挟まれた場所はいつまでも曖昧でどちら側にも属さない。だから多分、落ち着くの。そうしてわかるの。ここも世界じゃないかって。今はきっとわたしだけの世界だって」


 シロタさんのスカートから伸びた脚はきりりと音をたてる。

もう声は聞こえなくなっていた。走り始めたのだ。木々の枝をすり抜けてまるで何か別の器用な生き物のように。


「シロタさん、待って」


 内側は入ってみるとそこがまさに通路だった。走ることができるかどうか考えるより先に走る。そうして辿りついた場所。


 足元に草ひとつ生えない踏み固められた地面がありその一部に、人ひとり通れるくらいの穴が開いていた。上下左右を補強する石組みに、長い年月の経過を感じずにはいられなかった。

 シロタさんに続いて穴の中へ潜り込もうと背を屈めた。

『礼奉来会』

殆んど消えかけてはいるが確かにそう書かれた木片が立て掛けられていた。

 ここが。


「良かった、間に合った。僕も是非、立ち合わせてくれないか」


 頭上から声と光があって、見上げるとヘッドライトを付けた岬青年だった。

「地図が解読できたんだ。地図に、何種類もの植物の葉っぱが無数に散りばめられていただろう。あれ、注意深く見ていくとひとつだけ違うものがあったんだ。羽。カラスの羽」


 頭上から差し出された地図を見る。

 鉛筆で円く囲まれ在るのは、なるほど、真っ黒い羽だった。黒は色彩の中で、奇妙にも色彩そのものだった。写し取ったときには気が付きもしなかった。それが羽の形をしているなんて。葉っぱはいつか羽にもなれる、なんて。

 

「この羽の位置がこの生垣のなかのどこに当たるか、照らし合わせてみた。そうしたらここにたどり着いた」


 後ろから、埃だらけの提灯を点した多古田氏が顔を覗かせた。


 頭の中で『翼をください』が流れ始める。

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