第54話 母の挑戦
お祖母ちゃんは結局三日経っても戻らなかった。
家出・失踪事例として扱われ、二玖と母は近所の商店に貼るビラを作り始めた。
「母さん、張り紙の文句、できたけど…」
母の部屋に入ると机の一隅に本が積み上げられその反対側に小さく母がうつぶせていた。
「ああ、ありがと」
『探しています・情報をお待ちしています』見出しはありきたりだ。
「試験か何かあるの?」
「まあ、そんなところ。でもとてもじゃないけど手に付かない」
母はおもむろに話し始める。
「最近骨董を引き取りに行くと、大抵独居老人の家なわけ。なかには孤独死した老人自身が引き取られていった直後、だったりね」
試験、の話題ではなかったか。二玖はいまいちついていけない。
「人間は、モノではないから、それを引き取る資格は、母さんにはないの」
(そりゃ、そうだ)
「…母さんはその、老人の遺体を引き取る資格でも取るの?」
「うーん、引き取るというか、供養するというか。何ならもっとその前で食い止めたいっていうか」
理解しかねている娘に、母は打ち明けた。
「あのね、実は母さん、少しだけ医者だったこと、あるのよ」
「…どういうこと?」
「続けられなかったの」
母は言った。
「お祖父ちゃん、つまり母さんの父親、霧野林太郎のこと、だけどね」
「林太郎じいちゃんは大学教授だったんでしょう」
「そう。父は医学部の教授。わたしはそれが誇らしかった。だから自分も父のように立派な人間になりたいと思って必死で勉強して、医学部、しかも父の母校に入学することができた」
「へえ、すごい。全然知らなかった」
「そりゃそうよ、言ったことないもの」
母はやっと微笑んだ。
「入学後しばらくして、研究室の古い記録に軍医名簿を見つけたの。そこに父の名前を発見した。それで軽い気持ちで、父に尋ねたの。戦争で軍医としてどんなことをしたのか。当然、人を救った話が聞けると思った。実際、始めはそうだった。でも、途中からぼんやりした眼になって、淡々と、捕虜に施した実験について語り始めた」
母は机に目を落とす。
「おぞましい内容だった。軍医って戦争で傷付いた兵士を治療するのが仕事だと思ってた」
目を上げて、真っ暗な窓の外を母は見つめる。
「父は人体実験をしていた。敵の捕虜を実験台にして」
二玖も本で読んだことはあった。日本軍に存在した軍医部隊のこと。
「実績を残したかった、と父は当時の気持ちを表現したわ。同期の医師たちが、当時日本の医学界で先駆け的偉業を次々成し遂げていく中で、自分は死にかけた兵士の死期を徒に延ばすのみだった。そんな時、満州で、今までにない、画期的な実験に参加できると聞いて、『名を残せる』と確信したのね。自分の力が捕虜によって試されるならたとえ彼らを踏み台にしようとも構わない、そう、思ったというの」
「名を、残す」
かつん、と当たる。残ったのはわたしの名前だった。どんな絵なのか、どんな気持ちで描いたのか、そんなことは誰も聞いてはこなかった。ただ名前が刻まれていたんだ。最優秀賞、霧野二玖。
「捕虜の、実験台の人たちはどうなったの」
聞かなくてももう知っているではないか、ともうひとりの双子の片割れが笑う。
「証拠が残るといけないからって燃やされたり埋められたりしたらしいわ。終戦間際には実験施設自体、日本軍によって爆破された。証拠隠滅ね」
燃やして埋めて、なかったことに。
「結局わたしは医師になって間もなく、仕事をやめたの。そしてもう、人間相手ではなく、モノ相手の仕事に就くことにした。そのことはなぜかわたしの心を落ち着かせた。わたしは責められない。もう、責められない、と」
母はカーテンを閉める。
「おかしいわよね。わたしは一度だって責められてないのに。責めていたのはむしろわたしで、責められていたのは父なのに。…母さんね、モノ相手の仕事を始めよう、と思ってから、この広い生垣の迷路に覆われた蔵を店にできないか、って、開かずの間状態だった蔵を開けてみたの。でも、開かずの間状態だって思っていたのはわたしだけみたい。つい最近まで、誰かがきちんと整理整頓していた形跡があった。おばあちゃんね。ここは、かつての僧侶の遺品が数多く残されていたわ。それから、奥は陶芸作業場。作りかけの器がいくつも、時間が止まったように置かれていた。もっと奥には数メートル、陶土を掘り出す採掘の穴。母さん、あの穴は怖くて、閉じたままだけどね。……古い、もういない人の物って静かだなあ、ってわたしはなぜかとても親しみを感じた。それで、骨董を扱う仕事を選んだってわけ」
でも、と母は区切って、続けた。
「オウルの部屋の、本棚ね、あそこの古い本には、手をつけられないの。娘として、親の本棚を見る、という意味で」
「こわい、から?」
「そうね、怖いわ。採掘の穴に入るくらい、もしかしたらそれよりも。…人ひとり分の、意識があそこにある気がするの。それは、父、かもしれない。若い頃、人体実験に勤しんだ父の意識が丸ままあそこにある。あるいは、母、かもしれない。絵を愛する、もう歩くことしかしない母の意識が。それとも、誰か別人の」
「私立図書館、に連れて行かれた?貸出カードを持っている誰か?」
「もしかしたら、そうね。もうあちらへ行ったまま、戻れない、父や母の、一部。もう父や母から離れてしまった、意識の一部」
自分で話してて、わけわからないわ、と母はにっこり笑った。
「母さんは、廃棄物取り扱いに関する勉強をして、色々な資格を取って、引き取り手に困っているモノを集めることから始めた。引き取ったものの大半はただの廃棄物かもしれない。でも中に、宝物が存在するの。ここは縁あって母さんのところへやってきた引き取り手のない遺品を保管する場所なの。そういう仕事を長年もやってきて、今何となく、もう許してもらえたかなっていう気がしてる。ここの物たちに、もういいよ、って言われてる気がするの。だから改めて、医師として人の命に向き合ってみたいって、ふとね、こんな齢だけど、思ってる」
母は静かに語った。
「ねえ母さん、どこかに、らいぶらいえ、って呼ばれてきた図書館があるんだって。キリスト教が禁じられていた頃から密かにあって、誰にも在りかを教えてはならないって伝えられている、そんな図書館が」
二玖は言いながら、だいぶ歴史を歪曲させていることを、我ながら苦笑する。
「誰にも?」
「誰にも」
「じゃあ最後の誰かさんはきっと自分の胸にしまったのね、その在りかを」
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