第52話 コーヒーとともに②



 

 しばらくして、ふたつ湯気の立ち昇るお盆を支え、正座した多古田さんが、ことん、ことん、と板の間に置いたカップに見覚えがあって、あ、とつぶやいた。


「何か?」


「いえ、このカップ、どこかでみたことがあるような気がして」


「おやそうですか。まあそうかもしれない。これは長年、宿坊で使われていた物ですからね」


 宿坊?わたしの家のこと?コーヒーカップは傘佐木さんが作ったものと同じに見えた。


「宿坊には喫茶室だったと言う場所があります。そこは菜園仕事の休憩の場として後で付け足されたと伝え聞きました」


「本宿坊の母屋本体に付け足されたということですか」


「むろん、そういうことでしょう」


「それにしてはだいぶ古びていて、明らかに母屋の方が新しい気がします」


「おや、そうですか。では順番的には土間の休憩室のほうが先、でしょうかな」


「なんだか、家の話しになると、結局いつも、どっちが先か、という問題に突き当たる気がします」


「あの土地に、新たな建物が建築されると目立つから、継ぎ足し継ぎ足しし、宿坊本体に付属させたのでしょうな。大体、キリシタンにまつわるものにおいては、探そうとしてもありかのわからなくなってしまったものの何と多いことか。徹底的に、隠しすぎるのです。物という物全てね。けれどね、…隠すことと失うこととは紙一重なんです。隠している間に大抵のものが変容してしまうものです。喫茶室は元々、喫茶室などではなかったかもしれませんし、このカップだって、本当はカップを作るつもりではなかったかもしれない。隠すということは見えなくするということ。それは見つけられて困る相手からだけでなく、自分からもやはり十分には見えなくなるのです」


 コーヒーカップを握る手のひらが汗ばむ。


「最初に隠した者は、中身が何で、どうして大切かをもちろん理解していた。しかし、それが受け継がれていくうちに中身が何か、どうして隠さねばならなかったか、なぜそれを大事にしなければならないのか、というような当たり前に抱く疑問には誰も答えない。ただ、黙って、中身を確かめることなく、受け継いでいく。そして最後の人間が、隠したことをも忘れ去る」


「さっきの、庭のはなしと、同じでしょうか」


「同じに感じますか」


「なんだかちょっと違うような。でも似ているような」


「そうですね。確かに在るものなのか、それとも在るかどうかわからないなりに在ると信じているか、の違いでしょうか。挙句の果てに、いざ中身を取り出そうとしたら、見つからない。探して、探して、困り果て、とりあえずニセモノで満たし、安心する」


 話が抽象的でわけがわからない。


「実は私は寺の長男として生まれました。ここは、見かけは寺ですが、周囲の大部分の家は今現在、別の寺の檀家で、ここを本物の寺だと思っている人はほぼいないでしょう。いるとすれば、それはここに感心を持たない、ここへ来たことのない、ちょうどあなたのような方」


 多古田さんは二玖を見て微笑んだ。


「仕方のないことです。何かにすがらなくても、生きていける時代だ。現にわたくしも、寺を放棄して、つい数年前までやってきた」


 多古田さんはコーヒーをひとくちすすった。


「この寺の特殊性に目が向いたのは恥ずかしながら最近のことでした。つい数年前まで父が健在で、全て父が取り仕切っていたのです。わたしはただ会社通いの日々を漫然とこなすのみでした」


 足元の日陰と日向の境目に、蟻がさまよう。


「この辺りの、元々の檀家は、古来からキリシタンといわれている人々でした。仏教徒を装う、キリスト教徒、といえばいいでしょうか、」


 多古田さんは二玖に予備知識がないと思って、説明しかけた。


「あ、ご心配には及びません。多少、知っています、この土地のキリシタンのこと」


「おや、そうですか。それはありがたい。あなたは元宿坊に住まうおじょうさんだから、むしろ知っているはずだとわたしも思う」


知っているはず、ではなくて、知っているべき、と言いたいのだろう。


「父が他界したあと、わたくしは寺に関して全くの無知でした。高齢化で、信者は減り、檀家のこどもも、町から出て行くばかり。この国では今や信仰を持つこと自体、特殊です。わたしはもうここを必要とする人間はいない、もはや潮時、と考えました。……そんなときです。父が寺で面倒をみていた若者が率先して行事ごとをこなしてくれるようになりました。彼は寺の一番近くにある檀家の息子でした。彼の母親は彼が高校生の頃、死にました。おそらくキリシタン信仰によって命を落とした、最後の人間でしょう。人は彼女の死をそうは見ないかもしれない。けれどわたしはそう思います」


「殉教、ということですか」


「難しい言葉をご存知ですね」


「どういう死にかたを?」


「自宅に深い穴を掘り、そこに入って一日中祈るという一年に一度のしきたりがあるのですが、」


「大きな深い穴、ですか」


「ええ。この地区の隠れキリシタンの家には必ずあります。最も、秘かに掘らねばならないし、折り曲げて体ひとつ分入ればよいので、実際はどの家の穴も、それほど目立つ大きさではありません。植え込みの影などにそっと掘られて、上から植物の葉で覆われている場合が殆んどです。彼女はその穴に入って一日、二日経っても出てこなかったのです。不審に思った息子が様子を見に行くと、死んでいたそうです。死因はおそらく、同じ姿勢で長時間いたことによる、肺梗塞だと言われています」


 二玖は何も言えなかった。

「ばかげた死に方だ、と思われますか」


「いえ…、ただ、なぜなのかな、と思って」


「禁教時代、そんな死ばかりでした。キリシタンの死に方は。あらゆる拷問で死に至りましたが、どれも、美しいとは言いがたい死に方です。けれどね、そんな死の中で、まだ生きているのが自分だ、と息子である彼は笑いましたよ」


 冷めてしまったコーヒーに、多古田さんはゆっくりと手をのばす。


「泣きながらね」


 多古田さんは一息置いて、続けた。

「青年は寺に伝わるいくつものしきたりについて教えてくれました。それらは大変奇妙で、一般的な仏教とは一線を画していました。そのことを理解するためには一般的な仏教のしきたりを理解していなければなりませんが。恥ずかしながらわたくしがその知識を得たのはつい最近のことです」


 そのとき開け放たれた門の向こうに人影があった。照りつける太陽の陰になって、よく見えない。


「帰ってきたようです」


笠を目深に被った彼は寺の勝手口の方へ周り、寺の内側を通り抜け縁側へ現れた。大きなリュックをどさりと足元に置き、手ぬぐいで顔をぐいっとひと拭きした。


「彼がその、青年です」

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