最終章
第49話 シロタさんとミントチャイ
「シロタさんが来てくれることになってるから」
母は出かけに、ついでのように言って出て行った。
(来てくれることになってる?)
八月は夏。小さな秋の種が散りばめられた夏。
(シロタさんはやって来る。夏として、か、秋として、か)
ひどく冷たい牛乳を飲み干すと、二玖はいつのまにか待っている。
(シロタさんはいつも勝手に来るじゃない)
待つ必要などないのに。
トースターからパンを取り出して齧った。朝食用の丸くてちょうどいいサイズのパンは、母さんがいつもまとめて作り、冷凍している、料理は好きじゃないみたいだけど、パン作りにはこだわりがあるみたいだ。茶色くて素朴な味。何でも、大学時代に陶芸サークルに所属していたらしい。
「だから、母さんはパンをこねるのが好きなの」
だから、の使い方がなっていない。陶芸の、捏ねる過程とパン作りの捏ねる過程に共通点を見出した。だから、と使うべきだ。
「捏ねるのが同じだし、焼くのも同じ」
陶芸の焼く過程と、パンの焼く過程が。
確かにそうだ。
母さんにはまだまだ謎が多い。自分を産んだ人物だからって、全てを把握できっこない。当たり前だ。自分がこの世の中に産み落とされて以降の母。しかも、記憶の確かさで言ったら、生まれて十年以降くらいの記憶しか、母さんについて、娘である自分は知りっこない。二玖は改めてその事実を想う。
つけっぱなしのラジオはいつのまにか騒々しい通販番組になっていて、二玖は電源を切った。
ちょうどいいタイミングで呼び鈴が鳴る。案の定、シロタさんだ。
「おはよう。今日はアルバイトに来たの」
「アルバイト?」
「時給千円」
安いのか、高いのか、まだバイトなどしたことのない二玖にはわからない。
「店番をしてって頼まれたの。娘のフクと一緒に」
「それ、わたし?」
「他にいるの?」
「いたら厄介ですね。……あー、シロタさん、朝ごはん食べたんですか」
「いえ、間に合わなくて」
「そんなだと思ったわ。パン、どうぞ。それに、…そうだ、チャイを作ってあげます」
チャイは、まだここに住んではいなかった頃、遊びに来た二玖に、おばあちゃんが淹れてくれた。お湯と牛乳半々くらいを温めて、紅茶葉と砂糖少々を入れ、生姜を摺り入れて小鍋で煮出す。琥珀色が深まったら最後にスパイスを投入。
「スパイスは何を?」
「大抵、シナモンとか…。あ、庭に最近いい香りの葉っぱがお目見えしてるから、何だったらそれも」
「このお庭にそんな場所あるの」
「それがあるんです」
二玖は火を止めて、シロタさんを例の植物の生えているところへ案内した。
「ここ」
土蔵の壁と、生垣との間。摘んだ葉っぱをシロタさんの鼻に近づける。
「わあ、ホントだ。いい香り。これはミント、かな」
「ミント?」
「植えたの?」
どう見ても、植えたというふうではなかった。
「いつか誰かが植えたものが、自生してるのかな。きっと紅茶に合うわ」
シロタさんは、目を閉じて香りを胸いっぱいに吸い込むと、柔らかそうな葉っぱをいくつか摘み、二玖が先頭になって生垣を抜けた。(そうしないといつまでも帰れないから)
──ごちそうさま。
すっかり温まり、汗ばんだところで扇風機の前でしばらくくつろいで、二人は土蔵へ向かった。開店の時間だ。
「二玖さんはよく、こうして店番をしてるの?」
「いいえ。初めて。頼まれることもないです」
「でも、いいわね。小さな頃から、重要文化財みたいな建物に囲まれて。土蔵って何が仕舞ってあったの?」
「何、…ですか?」
(そういわれてみれば、確かに。どうしてわたしは、それが何だったのかを気にも留めなかったんだろう)
シロタさんの是非にという強い希望で蔵の奥を見せてもらったのはその日の夕方遅くだった。
「あれ、まだいたの、シロタさん」
おばあちゃんが寝床へ入り、夕食をシロタさんと共にしているところに、母が帰ってきた。
「どうしても、気になることがありました。元々、この蔵にあったもの」
モノに関して、彼女は今、曖昧ではいられないのだ。
「むかしむかしの器たち、よ」
「器?」
「ええ。この辺りはむかし、焼き物で栄えていたの。その頃の器がたくさん、それこそもう、土に還ってしまいそうな勢いで積み重ねてあったわ。それから、焼き物作りの道具類、そして、ここに暮らした僧たちの持ち物。生活とか、手仕事だとかにまつわる全てがつまった宝箱だったわ」
焼き物と聞いて、岬青年の言っていた、『骨董屋のルーツ』について思い出した。
「じゃあ母さんの骨董屋は、器の取り扱いが専門だったってこと?」
「そうね、最初は土蔵にあった大量の器を売って、開店資金にしたの」
「そんなに貴重な器だったの?」
「この辺り原産の器は、もう新たにつくることができないといわれているわ」
「どういうこと?」
「土よ。原料となる土がもう採掘できないから」
「土はどこの土なの」
「ここ」
母は足元を指差した。
「江戸時代の半ばまで、盛んに採掘されていたというわ。でも、どういうわけかその辺りの時代からぷっつりと、採掘の記録が途絶えるらしいの」
「ぷっつりと」
シロタさん。
「記録だけが途絶えるの?」
二玖が付け足す。
母は目をきらめかせてその質問に感嘆した。
「そんなふうに考えることはなかったわ。そうね、確かにそうだわ。記録上、なかっただけかもしれないわね」
二玖は久しぶりに母に褒められた気がした。
「離婚して、この家に帰ってきて、土蔵を開けてみたくなったの。何が入っているんだろうって。それまで思いもしなかったことよ。その建物はずっと初めからそこにあって、母さんにとっては「背景」だった。山は遠くから眺めるものだと思っている人が、ある日登ってみよう、と思うのと似ているわね。いつでも、「背景」に入ってみることができるのに、なかなか気が付かなかった。とにかく、開けたわ。開かずの間みたいになっていた真っ暗な土蔵をね」
母は二玖とシロタさんに向き直り、改めてシロタさんの肩にポンと手を当てた。
「こないだ、シロタさんが言ってた言葉、モノ同然の人間って」
母の話題転換に、シロタさんの顔がぱっと赤らんだ。
「ああ、ごめんなさい、つい言葉が絡まってしてしまって」
(──絡まってでも、出てきた言葉だったんだ)
蔵の隅っこにまだ、あの日の言葉たちがじっと吹き溜まっているように、二玖には感じられた。
母は続ける。
「シロタさん、わたし、ずっと引っ掛かっていたの。モノ同然なんだとしたら、その、『モノ』の方を人間同然にすればいいんじゃないかしら。ひとつひとつを、大事に大切に、存在を認識するの。そうすれば自分だって物だって関係ないじゃない。どちらか同然だとしても」
母意外、言葉を発しなかった。
「誰にも認識されずに存在する物と、そこに在ると認識されて存在する物。この土蔵にあったものを、後者に変えることができたから、逆説的だけど、母さん自体の存在が、確実になったの。物を使う、認める、在ると認識することが、わたしがここに在ることを確実にするわ。だから、物同然の人間だ、とすればそれは、周囲の物を認識してひとつひとつ存在を確認していくことで、物同然に、きちんと存在しているってことが確実になるんじゃないかしら」
「難しいけれど、少し、わかった気がします」
母はシロタさんを横目で見て、くすりと笑った。
(同じことを、こないだは母さんの方が言ったっけ)
「土蔵がどういう状態か、見る?」
母は二玖たちを夕暮れの庭へと誘いだすと、暗がりに浮かび上がる白い石畳をなぞり、閉店の札が掛かる土蔵の扉を転がすように引き摺り開けた。
三人は在庫が整然と並ぶ空間を横切り、入り口とは反対側、奥の突き当たりで止まった。
「ここは器を作りだす場だったのよ」
地面が剥き出しになって深くえぐれ、色の変わった地層が露わになっていた。
「ここで採れた粘土で、器を作ったの」
一番深いであろう部分には木の蓋が据えられ、まだ先があるようだった。
「ここで秘かに器を作り続けたのね、きっと。記録上、失われた場所で」
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