第48話 クロウ⑪ 【薄れる記憶】



 

 始めの目的は、もちろん、ここにベルネを幽閉することではなかった。

 そもそも、ベルネは自らここへ入ったのだから自ら出てきても構わないし、そうしてくれると思っていた。出てくるのを待っていた。今思えば、待っているだけではだめだったのだ。


 隠された言葉同様、隠された人間は、自分が元々、何を意味していたかを、失ってしまうのかもしれない。

 

 地下から全く出てこなくなったベルネに、どうにか食料を、と、烏貴子は菜園で野菜を作った。けれど広大な菜園を維持する力は、たったひとり残された彼女にはなかった。


 林太郎は軍医として中国へ渡った。


 菜園は荒れ果てた。


 映画の一場面のように眼前に繰り広げられる情景は昨日のことのようだった。 


 自分から、何もかも遠く離れていく。

 その、中心の自分でさえ、ふと気がつくと何者だったかわからなくなっている。

 わたしたちのライブライエが、夫林太郎の書斎になり、わたしの寝室になり、ただの物置になった。


 無造作に押し込まれた背表紙に見覚えがあって、思わず駆け寄る。

 未使用のスケッチブック。まだ誰も描かない真っ白なページ。


 これは、何だったかしら。


 丁寧に一頁ずつめくる。何も描かれていない白い空白が、烏貴子の目にはむしろ心地よかった。

(じきに、わたしはこうなる)


 潔い。望むところだ。

 一番最後のページの片隅に、ほんの米粒ほどの控えめな字で、鉛筆の走り書きがあって目を凝らした。


「烏貴子へ 彩り豊かな未来が待っていますように」


 これは、誰が書いたのかしら。


「烏貴子」


 声に出し、それからもう一度心の中で唱える。


(うきこ)


『烏貴子』に宛てて、誰かがプレゼントした、スケッチブック。烏貴子。馴染んだ音。よく知っているはずの「烏貴子」はしかし、もう誰だかわからない。けれど、クロウは烏貴子に伝えた。


「おつかれさま」


 老婆は今「クロウ」という名だった。クロウは、黒い羅紗のドレスを身に着けた高貴な女王だ。クロウには、このスケッチブックを持つにふさわしい者へ授ける義務があるのだ。

 ふと目に入った。

 貸出しカードの隅に、森の賢者フクロウの姿。


「そうだ。これは、オウルに」


 クロウは、最後のページをもう一度開くと、鉛筆の文字を消しゴムで消し、そこに新たな文字を書こうとした。けれど、消したと同時に、もうそこに何があったかわからなかった。なぜ消したのか。何をするために消したのか。


 自動的に、クロウはその場を離れる。いつもそうしていた。何か感情が激しく揺さぶられる場面では、自動的に体の向きを変え、自動的に前へ進む。考える必要がなくなったらもっと前へ進む。


 (森にかえろう)


 老婆は、むかしライブライエと呼ばれたその部屋を出た。そしてもう二度とそこに来ることはなかった。 



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