第47話 開かずのアトリエ
木陰の中にちらほらと立つイーゼルが見える。言う通りにするかどうかは別にして、彼の助言のいくらかを頼りにする子だっているだろう。
水面の輝きは一層眩く、美しく、二玖はしばらく見とれた。小川のせせらぎが妙に大きくなったような気がした。しんとした森の中でひとり、目の前の自然と対面する経験は久しぶりだった。
見覚え、とさっきの青年は言っていた。どこで見た景色かわからないが二玖はその、どうやら向こう側へいるらしかった。
まだ何も描かない、描く予定もないキャンバスの白紙の中に人が立っていた。さっきの青年と似ているようで違うよう。身に付けたデニムのエプロンはずいぶん使い込んでくたくただ。胸元に刺繍があった。キリノ。目を上げると、ひょろりと縦に伸びるだけ伸びて、それでも陽射しに届かない木みたいに立っている。その青年は目鼻立ちの特徴を一切取り払い誰でもないような表情をした。
指先には緑色の油絵の具が付いていた。
「この場所に見覚えがあったの」
さっきと同じ台詞を、抑揚のない声で言う。
「ない、とあなたは言うでしょう」
「けれどほとんど、支配などできない」
「この警告自体、あなたの心から発している」
「あなたが発しているのです」
「支配などできない」
(どこからどこまでがわたしなんだろう)
わけがわからなかった。わけがわからない、と思っている自分と、飄々としている青年のどちらがわたしなんだろう。
「どちらもです」
「どちらも」
細く長い指を差し出し、二玖に筆を渡した青年の腕をたどっていくと肩があってその先に首が伸び、色の白い顔がこちらをじっと見ている。
「わたしの知らないひと」
「知らないと思っているのはあなたの意識の一部だけです」
「それ以外ではとても親しい」
「わたしの親しい?」
イーゼルを軽々超えた向こう側に二人とも行ってしまった。そう思い至ると何だそうだったか、と腑に落ちる。今まで、どうやってここへたどり着くかわからなかった。ある時は夢の続きの場所のように、ある時は至極まっとうな方法で、そしてある時は前触れもなく。
空想の世界。わたし自身の創り出したわたくしだけの。
「あら。懲りない子ね」
「またあなたなの」
「──わたしが連れてきたのです」
隣りに青年が立っていた。まるで鉢植えの観葉植物のような棒立ちの青年。足元は泥だらけだ。
「さあ、アトリエへ案内してください」
「アトリエならこの間案内しましたよ。それより今日はお茶会をしましょう」
傘佐木さんはからりとした声で言う。
「いえ、もうひとつあるはずだ。あるでしょう。もうひとつ」
傘佐木さんは恐る恐るおんなを見上げた。
おんなの顔は引きつり強ばっていた。
「今度は誰を埋めたのですか」
誰を埋めた?
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