第46話 写生旅行
テレピン油のにおいに包まれながら道具箱の中身をひとつずつ確認する。絵筆もパレットも絵の具もちゃんとある。万全だ。でも絵を描く気持ちの方がどんより曇っている。いっそのこと大雨でも降ったら中止になるのに。
「明日だっけ」
風呂上りの母が、床に広げた画材道具を前に浮かぬ顔をしている娘に話しかける。
あらぬ方向に当たったドライヤーの熱風が、部屋の空気を循環させる。
「オウル、最近絵描いてるっけ?」
ドライヤーがカチッと切れる。
母がこちらを向いたのがわかる。二玖は顔を上げた。
「愚問っていうんだよ、そういうの」
「あ、そうなの?スランプ?」
「そんな大層なものじゃないけど。何か色々重たくなってきて描けない」
「重たいんだったら荷物、減らすとか?いっそのこと持っていかない、とか」
「道具を?」
「だって気分が乗らないのに絵描くのって、おかしいでしょ。絵なんて描かされてまで描くもんじゃないわよ」
「誰も言わないよ、描きなさいなんて」
「じゃあ自分に描かされてるのね」
「どういうこと?」
「高校に入ってコノカタ二年間分のオウルに。美術を学ぶということを自分に課せたオウルに」
母はわざと厳かに唱えた。
じゃあそれ以前の二玖は。
今ここにいるわたしとどこか違うのだろうか。二年という時間の降り積もったわたしと。
写生旅行は美術部の恒例行事で部員は半強制的に参加する。観光バス二台の大所帯である美術部は文化部らしからぬ盛大な見送りの中、学校を後にした。
途中、市内の芸大で学生OBボランティアが合流した。顧問教師の出身大学であり、毎年二玖の高校から常に一定数が進学する大学でもある。
紫外線カットガラスのグレイを通して見る空は晴れてるんだか曇ってるんだかわからない。二玖の小さな溜息を美雪が見逃さなかった。
「まさか雨、降ってほしかったの?」
「…それもいい」
「だったら中止になっちゃうじゃない」
(だからいいんじゃない)
みるみる景色は移り変わり、深い森のなかを縫うように進み、窓を開けるとそこらじゅうに潜んでいるひんやりとした空気が前触れなく滑り込んでくる。
バスが止まったのは山を見上げる丘陵地だった。
二玖は森の中へ入る小道を下る。美雪は草原から一望できる山の連なりを見上げる。
「また後でね」
それぞれの描く場所を探しに美雪と別れる。
木漏れ日が地面のあちこちに散らばる。こんなに高い木々の間にずっと居ることって今までなかった。
まるで。
まるで、の先に何と言ったらいいかわからない。落ち着くってこと。ずっと居たいような気持ちになるってこと。
図書館と似ている。そうだ、まるで私立図書館。
「いいね、この場所。見覚えがあるの?」
(見覚えがある?)
青年が後ろに立っていた。ボランティアの卒業生たちが巡回してアドバイスをしてくれているのだ。
二玖はキャンバスに向かっていた体を少し捻じ曲げて青年に会釈をした。
「どうも」
「やあ」
聞き覚えのある声。デニム生地のエプロンの胸に「岬」と刺繍が施されていた。
「あれ、今日はボランティアですか」
「ボランティアっていうのは名目だよ、実際は自分たちだって描きにきてる。ボランティアはついで」
二玖が納得しかねている間に岬青年は腕組みをしてイーゼルの周りを一周した。
「へえ、やっぱり描くことにしたんだね」
それは感心、といった調子だ。
「まだ、何も描いてないですけど」
「でも描こうとしてる。それだけでも大進歩だ。僕も、絵の可能性に魅了されて虜になって限界に気が付いて今に至る」
「今、複雑なこと言いましたよね。でも結論だけかいつまむと、つまり、限界が見えた、と」
「限界は見なかったことにすれば、よかったんだけど」
青年はくるりと背を向けて水辺に座った。
「僕の育った家庭には、細かい決まりごとがたくさんあった。どれもこれも些細なんだけど、とにかく面倒だし、根拠が見えないことばかりなんだ。代々受け継いできたしきたりだ。例えばね、朝一番に庭にある穴に水を注ぐ。決まった時刻にお経を唱える。親は真剣にこなしていたよ。でも僕はなぜそれらをしなければならないかがわからないのがどうしてもいやだった。こうはなりたくない、と思った。わけもわからず盲目的に生きてゆくなんて。ただ、その時の僕にできた反抗。…真っ白な紙に自由に世界を創る。世界って創れるんだ。自分の置かれた世界がどんなに窮屈でもその中にいる自分の中にさらに世界は在る。誰にも邪魔されない世界がね」
太陽は少しずつ動いて、水面をきらりと輝かせる。
「でも」
青年はまぶしさの中続けた。
「その窮屈な世界から飛び出した途端に、絵が描けなくなった。正確に言うと、どっちでもよくなった。自分の世界の外側があんまりにも素晴らしかったから」
「エジプトですか」
「エジプト、イタリア、フランス、それから中国、タイ、世界中。野宿はなかなかきつかったな」
彼はいたずら少年のように笑う。
「両親のこなす盲目的な習慣には根拠がないって思っていたけど、それこそ、根拠は自由なのかもしれないって思えてきた。自分が何を、何のために信じるか」
木陰が真っ白なキャンバスに落ちる。
「両親にはそれぞれにきっと根拠があった。僕は僕で、自分の根拠を見つけたらいい。そう気が付いた。自分の信じることを信じる。それでいいんだって」
「…わたし実は、道具は置いてきたんです」
「え、どういうこと?」
「描かされて描くのはやめたんです」
青年は、一瞬黙ってへえ、そうなんだ、とまたにっこり笑い、
「いいことだ。僕みたいな者にアドバイスをもらって、その通りにするなんてばかげてるもの」
そう言いながら彼は林の奥へ消えて行った。
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