第42話 生垣の向こう側

 

 


 郵便受けが再び緑に覆われようとしていた、八月半ばのことだった。


 多古田さんはあれっきり、剪定に訪れない。

 二玖は久しぶりに剪定ばさみを手に庭に出ていた。玄関までの通り道を確保しておかなければ、雨の日には覆い茂る枝葉で服が湿った。


「二玖、ついでにお願いなんだけど、お店に通じる壁伝い、草に覆われて塞がれてるの。抜いといてくれない?」


 母の声が窓の内側で響く。夏休みなど関係のない母は、今日も出かけて行く。


「今日は晩ゴハン作るから、ね、お願い」


(もちろんそうしてくれないと)と思いながら二玖は、店へ続く壁と壁に挟まれた路地になったところへ向かった。

 いっそのこと、こういうあまり立ち入らない場所こそ、コンクリートででも固めてしまえば少しは手間も減るのにな。もうすでに膝くらいに伸びた草丈にうんざりして見渡すと、ふっと漂う香りに足が止まった。


「まあまあ、旺盛に」


 振り返ると祖母が立っていた。

 大正の人にしてはすらりと背の高い祖母は、いつになく背筋が伸びて余計に背が高く見える。


「草じゃないの?」

 答えを期待していなかったが、案の定祖母はすうっと向こうへ歩いていった。


「ハーブかな」

 二玖は漠然と、ハーブ、を認識していた。葉っぱをこすると爽やかな香りのするあれだ。 

 生垣になるずっと前、宿坊の僧侶が自給するためあらゆる植物を育てる必要があったとすれば、広大な面積の畑が、この高低差のある土地に、段々畑のように広がっていただろう。 


 人間でいうと前世に当たる、土地自体の記憶があるとしたら。

 ふいに現れたハーブに、なぜ今まで隠れていたのかを尋ねたら、教えてくれるだろうか。せめて祖母に、尋ねることができたら。


 おばあちゃんが庭の世話係だった頃、ここはどんなふうだったの?おばあちゃんの心のなかには、庭が在るのだろうか、生垣の巡る庭に変わる前の。

 次々と浮かぶ疑問に答えることもそれを消すこともできず、二玖はその場にうずくまった。


 何となく抜いてはいけないような気がしてその香りのする植物だけ残し、明らかに雑草だと思われるものを根から引き抜いてはカゴへ入れていった。香っているのはどうやら地面を這うタイプのものらしい。それは二玖の立っている足元から生垣の奥へと続いていた。あんな暗がりで育つんだろうか。この暑さならむしろ、日陰の方が生き延びるとか?そこはどこにも増して垣の厚みがあるように思えた。


 生垣の中に広がる空間について、想像することなんてなかった。そこで別の植物が育っているなんて。

 そうこうするうちにぐんぐん日は昇りただの苦行になりつつあった。

 暑くなる。

 太陽が高くなる前には引き揚げてね、と母に忠告されていた。草抜きで娘が熱中症になったりしたらバツが悪いものね、そう返すと、母は祖母が倒れた日のことを教えてくれた。「以前、おばあちゃんが庭で倒れて発見が遅れたことがあったの。ちょうど、二玖の生まれる前の日よ。やっぱり、真夏だったわ。この生垣には死角が多すぎて」


 見えない部分を見ないでおくという選択肢があったら、そのほうが楽だ。偶然発見された、おばあちゃん。偶然、見てしまったら、どうしよう。本来死角だった部分。


 例えば、後回しにし続けているおばあちゃんの死蔵品に潜む案外に広い死角。

                   

 部屋の、本棚の反対側の面にはベッドと、雑然と積み上げられた大量の絵があってそれを目隠しするために大判の布が掛かっていた。母が銘仙の着物を解いて縫い合わせたものだ。落ち着いた淡い桃色地に蝶をモチーフとした幾何学的な模様。少しでも女の子らしい部屋になるようにと被せてくれたんだろう。


 それをばさりと剥ぎ取ると案の定何の脈絡もなくただ倒れないことだけを信条として積み上げられた絵が整然と在った。どれもキャンバスに描かれてはいるものの、ひとつとして額に入ったものはなかった。中には木枠からも外されくるくると丸められてひとかたまりに紐で結わえられているものもある。


 大きな行李の中には昔の衣類。入れっぱなしで袋だけになった防虫剤の下から、懐かしい香りが溢れ出す。背広にワイシャツ、ベスト、いつもおじいちゃんが身に着けていた絣の羽織。


 他人のモノは価値がわからなくて簡単には片付けられない。モノひとつひとつの、そこに在る理由。

 一旦床に広げてみるものの再び元に戻す。倒れないように。


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