第40話 クロウ⑦ 【幽閉前夜】
さらに時は流れ、一九三九年。
ドイツがポーランドを侵攻し第二次世界大戦が勃発した。
映画は事前に検閲され外国映画は上映制限がかかった。
高学年男子に柔道と剣道が課された。
厚生省が「産めよ殖やせよ国のため」の標語を掲げた。
ベルネが日本へ来て八年目だ。
花子はベルネに外出を禁じた。
『決してベルネを村人に見られてはならない』
そう綴られた手紙が、林蔵から届いたからだ。
海軍兵学校で正式に教職に就いた
その時もフランス語の最新の小説本と共に、手紙が送られてきた。
林蔵が得た情報では、最近、特高警察に強制連行される異国人が何人もいるという。異国人というだけでスパイ容疑がかけられ、連行されればもう戻ってはこられないとのことだ。
当初は林蔵の言いつけを、あまり厳格に守っていなかった花子も、日本と諸外国との関係が怪しくなってきた最近では、その情報を真に受けている。
戦争の気配はどんな隙間からも忍び込み、どんな小さな生活空間をも満たしていった。そうしてそれは、霧野家の外壁にも張り付いた。
『非国民』
剥がしても剥がしても、心無い匿名の張り紙は貼り付いた。普通に考えれば、海軍将校の家が非国民であるはずがない。
「紙を恵んでくれるってわけかな」
林太郎は呑気に言って、破れないよう丁寧に剥がしたけれど、烏貴子は裏に絵を描く気分にはなれなかった。
明らかに、ベルネを吊るし上げたがっている人間が周りにいた。もし眼の前にベルネが現れようものなら、敵国のスパイとして警察に突き出しただろうし、ベルネの存在を匂わせる物を見かけたなら執拗に問い詰めただろう。
「ベルネは国へ帰ったことにいたしましょう」
花子が皆を居間に集めて言った当時、それは最善に思えた。当時の異常な状況で導き出される一番よい方法だった。
「ベルネは今朝早く、港を出たのです。祖国フランスへ向けて旅立ったのです。そう、いたしましょう」
当のベルネも含め、皆で頷きあったのが新年を迎えた頃だった。
始めは敷地内なら構わないだろうと、春先の畑で、ベルネに力仕事を任せたこともあった。所々段々畑になった、起伏のある独特な地形、猫の手も借りたいような春の菜園だった。ベルネはまだ誰も起きていない夜明けに、ザックザックと土を掘り起こし、肥料を混ぜ込む。朝靄のなか誰が誰ともわからない。菜園は背の高い塀で囲われているうえに、門はただひとつ。見られたとしても「人影」としか認識されない。だから油断していた。
『礼奉来会のゼウス様が現れた』
烏貴子の耳にも断片的に入ってはいた。何度も何度も断片的に耳にする呪文のような言葉全体が、烏貴子の頭の中に文字として起こせるようになった。
(らいぶらいえ、の、ぜうすさま?)
村の市場で、集会の席で、「見た」とか「見ていない」とか、「違う」とか「違いない」とか。
不思議と誰も、烏貴子本人には尋ねてこなかった。まだ、異国人はそこに暮らしているのか。姿を見た者がいるのだが、実際、いるのか、いないのか。
「ライブライエ、は『図書館』の言い間違いか何かでしょうか。英語で図書館をライブラリーと言いますから」
ベルネの言葉に林太郎は同意し頷く。
ちょうどベルネは椅子を作っていた。
地中喫茶室は一段低い位置にあるおかげで、外からは見えにくい。そこを工房にして日中を木工に費やし、夜は林蔵の書斎から持ち込んだ本を読んでいた。家に引きこもる生活のなかで、ベルネの木工の腕は日に日に上がった。椅子に始まり、机、マントルピースまで、あらゆる家具を製作した。
「ところでそのゼウス様は、どこに現れたのですか」
「ここ、この屋敷の菜園で、と言ってるらしいです。春靄の中、浮かび上がって見えた、と」
烏貴子の言葉に、林太郎ははっと顔を上げた。
「ゼウス。ラテン語で神様。ベルネのことではないでしょうか」
まだ合点のいかない烏貴子は説明を求める。
「どういうこと?」
「ベルネが土を耕すとき、いつも、ボロを着ていますよね。あのすがたに、何か得体の知れない崇高さを感じるのですよ、きっと。ほら、わたしたちアジアの人間からしたら、ちょうど神様のようではありませんか」
見られている。完全に隠れないといつか特高警察が、異国人ベルネを捕らえに来る。
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