第39話 クロウ⑥ 【輪廻する絵】

 



 翌年。一九三六年。


 今日、ベルネはお暇を頂いて、農作業は烏貴子ひとりだ。

 ベルネが日本にやって来て、五年の月日が過ぎ去ろうとしていた。


 烏貴子は鍬にもたれつつ汗を拭い姿勢を正す。


 (霧野のおうちは益々ご繁栄だわ。遠く広島にある海軍兵学校で教鞭をとることになったご主人はお忙しく、めっきりこちらのお住まいにお戻りでない。御長男様も、次男様も、ご学業で上京しそのまま東京でお仕事に励んでおられる。わたしは奥様と林太郎さんと、そしてベルネと、四人でこの屋敷を守らねば)


 時々ベルネは「ル トラヴァーユ ド ラ ヴィ」と、歌うように言いながら、ふっとどこかへ行って終日戻ってこないことがあった。


 「ル トラバー、ドラビ、とかなんとか、一体なんでしょうか?」


 烏貴子の質問に林太郎は「意味だけならば分かります」と前置きし、


「人生を懸けた仕事、でしょうか」


 と、不思議そうに首をかしげた。

 ベルネ本人は、行先を尋ねてもつぶさな説明を避けるように涼しい顔で帰宅し、「スーヴェニア」とまた歌うように言い、野草の花束を烏貴子に渡した。


 烏貴子はベルネが来てからの五年間、その時々の菜園の植物を雑紙に描き溜めて過ごした。

 それらは同じ緑色した葉のようで、ひとつとして同じではなかった。光と風と空の深さがそれぞれを掛け合わせ、万華鏡をくるくると回転させた。曇ることも霞むこともあったけれど、見えなくなることはなかった。万華鏡を回す手が、止まることはなかった。見ること、描くこと、感じること、それぞれが鏡の破片ひとつひとつとなって輝きを反映した。


 どれも色のない絵だ。しかしそれを見る誰もが、絵の中に色彩を感じた。


「烏貴子の描く絵は、たぶん、絵そのものがいつか、失われることを知っています」


 ベルネは自分なりに感じたことを言葉にしたのだろう。


 烏貴子は、長い沈黙のあとに、何とかベルネの言葉を自分なりに解釈して表現する。


「絵のなかにしかもう、存在しないものがあるわ。でも、絵自体、永遠ではないでしょう。そして描いたそのひとも、いつか失われるの。誰かしらの眼に焼きついた印象は、絵でも何でもなくなって、もしかしたら言葉に代わって頭の片隅に仕舞われて、いつかひょっこり取り出されるのかもしれない。それが、誰かの絵だったことなど全く失われたままで」


 林太郎はそばで、ふたりのはなしを黙って聞いていた。聞きながら、ベルネに軽い嫉妬を覚えた。そんな自分が嫌いだった。この気持ちから離れよう。頭をかきむしりたくなるのを抑えて林太郎はその場を離れた。


 こういうとき、林太郎は文字を書いた。例えば、今、烏貴子が言ったこと。それを、書き留めよう。自分の言葉で理解するためには、書くのがいい。


『描くものは、描くうちに絵の中にしか繋ぎ止められなくなる』

『描き留めたそのときにはどれも真実だったもの』

『次の瞬間に眼の前にもう、さっきの真実は跡形もなく消え去っている』


そこまで書いて、林太郎は顔を上げて、声をあげた。


「絵が輪廻するんですね。それは」


烏貴子はまっすぐ林太郎を見つめた。

「輪廻。ああ、そうですね」


 烏貴子はシンプルに二文字になった自分の思いを、魔法のように感じた。

 輪廻しているのは目の前の全て。光、風、描く対象物。そして。

 何よりもわたし自身。そうだ、わたし自身。

 そのことに思い至って呆然とする。それが面白いんだ、きっと。それが面白くて描いている。


 林太郎はもう、ベルネに嫉妬するのをやめた。止めることができた。

 林太郎はベルネにはなれない。けれどまた、ベルネも林太郎にはなれない。では林太郎以外、林太郎になり得ない。じゃあ自分が、自分になり尽くすしかない。


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