第38話 クロウ⑤ 【蔵の鍵】 

 


 烏貴子の視界に、ずっと以前から蔵の鍵はあった。


 農機具類が無造作に片付けられた一角にひとつだけ、誰の手にも取られることのない奇妙な道具があった。それは烏貴子が幼い頃から木谷家の土間に、他の細々した農具と共に並べられていた。何か引っ掛けるのに使うのだろう。持ち手が木で、先が鉄で、鉤状に曲がっている。

 それはずっと以前からそこに在り、烏貴子にとって壁の染みくらいのものだった。


 霧野の敷地には、開かずの蔵があった。


 開けようとする者は誰もいなかった。長年、質素な僧侶が暮らし続けた場所に建つ蔵だ。烏貴子は初め、その蔵の中身に価値がないから「開けない」のだと思っていた。しかしある日、耳にした。鍵は始めからないのだ、と。



 暑い午後、日陰ひとつない農道の線路脇を、林太郎と並んで歩いていた。

 

 一九三五年、林太郎十八歳、烏貴子十七歳。


 世界ではドイツが再軍備を宣言し、これをヨーロッパ各国が非難した。

 満州国の皇帝が、初来日した。

 日本が正式に国号を「大日本帝国」とした。

 アメリカのデュポン社がナイロンを開発した。

 エルヴィス・プレスリーが誕生した。


 ──その片隅、小さな夏のある日、二人は歩いていた。


 医学専門学校の二年生になった林太郎が「気晴らしに」と烏貴子を外出に誘ったのだ。

  行先は新しくできた種苗店だ。政府が急ピッチで進めた干拓事業によって陸続きになった場所に鉄道が敷かれ、長い線路の先、広い農地にぽつんと佇む駅の脇に新しくできた種苗店だ。


「林太郎さん、知っていますか?…蔵の鍵ってどんなものですか」


 実のところ、質問は何でもよかった。ただあまりにも林太郎が無口だから、ふと質問が口を吐いたのだ。御奉公に来た当初はまるで兄妹のように気さくに接してくれていた林太郎はここ最近はあまり冗談を言ってこない。


「蔵の鍵って…どんなだか知りませんか?」


 聞こえていないのだと思って、烏貴子はもう一度尋ねてみる。


「蔵の鍵は、ですね…他の鍵とはちょっと違う。わたしも見たことはないけれど、そうですね、たとえばまるで農具のような」

「農具」

「そうです」


 林太郎は律儀に敬語で話し続ける。

「例えば、正面からは届かない壁と壁の隙間に草が生えているとするでしょう。そういうのを抜くのに、使えるかもしれない」


「使ったことはないのですか」


「ないです。だって、みたことがない。ただ、原理として知っているだけです。先が鉤状になっている。そうでないと開かない」

「先が鉤」


 烏貴子は、抜きにくい場所に生えている草を思い浮かべた。ちょうど、使用人の休憩室と、母屋を結ぶ廊下の継ぎ目の窪みに生える草があった。くやしかったら抜いてみろ、と言わんばかりに旺盛に茂っている。


 あの草を、壁の側から回り込み、たとえば、例の道具で引っ掻くように根元から抜く。その要領。


 頭の中で、蔵と、その用途不明の道具とが繋がった。蔵の鍵穴に滑り込み扉は浮かび上がるように開くだろう。その途端ひんやりした空気が流れ出て、新鮮な空気と入れ替わるだろう。 

 そうだあれは、蔵の鍵だ。それ以外ありえない。


「どうかしましたか」


あんまり烏貴子が何も言わないので、無口な林太郎がつい尋ねた。


「いえ、べつに。ただ…」


 一呼吸置いて、付け足した。


「物の価値って、わからないですね」


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