第35話 紅茶とともに①

 

 二玖は夕食を終え、母の部屋から窓の外を眺めていた

 三重塔は窓の中にいつもまっすぐそびえ立ち、凛としている。 


「母さん、ここがお寺の宿坊だったって言ってたよね」


 窓辺に立ったまま、背後で黙々と何か書き物をする母に話しかけた。


「ええ、そうよ」


「お寺って今もお寺なの?」


 二玖は全く知らなかった。この窓からの景色以外、二玖とその寺を繋ぐものはなかった。

「時々は前を通るんだけど、通るだけで」


 恐らくは母も、と思って振り返った。


「重願寺は機能しているわ。信仰の場として、今も」

 母は書き物の手を止めることなくゆったりとうつむいていた。


「じゅうがん寺?」

「願いの重なるお寺、と書いて、重願寺」

「願いの重なる」

「強い信仰を持つひとたちが、この辺りには大勢いたの」


 母からそんな話を聞くのは意外だった。二玖には全く宗教心がないし、そのように育てた母にも同じ価値観が存在するはずだと思っていた。


「母さんは何か信じているの?」

「特にこれという宗教は」


 二玖はほっとした。

「実はわたし、そういうのって苦手なの。全部を投げ打ってでも何かを信じる、っていうスタンス」


「全部を投げ打ってでも、ねえ」

 母はふっと笑った。

「宗教って一方的に信じるだけじゃないのかもしれないわよ」

「どういうこと?」

「もしかしたら、何か大きなものに信頼されている、という感覚もあるのかもしれない」


「信頼されている?」


「よくわからないんだけどね、信じて祈った自分自身が根拠、というか。いるかどうかわからない神さまに祈る、でしょ。すると祈る前と明らかに違う事実が生まれるのよ」

「何」

「時間。祈りの時間を過ごしたという事実。

神様はいるのかどうか、は何も変わらないとしても自分自身は確かにその時間、祈るということに集中した」


「時間」

「そこに割いた時間は確かに存在するわけ」

 一呼吸置き、母は続ける。

「でもこのことは信じてる人にしか本当にはわからないものよ。だから母さんにもわからない。ただ母さんには、このことについて考える機会が、たくさんあったの。だから、そうね、同じこと。そこに割いた時間は確かに存在する。たとえ信仰心がないとしても、信仰するということについて考えた、時間の存在は確か」


「誰か、」

二玖は母の眼を見て尋ねた。

「誰か、祈りつづけていたの?」


 壁に、元々絵はなかった。あったのはただ、額縁だけ。もう、そうでないと辻褄が合わないと思う。


「……そうね、母さんはいつも、祈る姿を見てきた。結局その祈りは誰にも伝わらなかったけれど」


「祈っていたのはこの家の誰か?」


 母は頷いた。

「おじいちゃんよ。林太郎じいちゃん」


 林太郎じいちゃん、の存在は、二玖の中でとても小さくて遥か彼方だ。

「伝わらなかったのは、同じものを信じるこの辺りのキリシタンのひとたち、かな」


「よく、知ってるのね」


「このあたりの人に、良く思われていないんだよね。ずっと。昔から」

『地の人間じゃない』そう言われてから、再確認したのだ。この家は地域から隔絶されていると同時に、生垣によって自らを隔絶している。孤立しているんじゃない。独立しているんだ、と強がるように。


 母は頷いた。

「母さんはこの家で育ったけれど、幼稚園から中学までずっと、送迎バスで街まで出たところにある、私立に通ってたの。だからこの地域の人との繋がりはほぼないに等しかった。今考えれば父、林太郎は、自分が味わった疎外感を、娘のわたしには感じさせないよう、この家から離れた場所にわたしの生活圏を設定したのね。そのおかげと言っていいのか、母さんはこの土地の歴史を知る機会なしに大きくなった。そんな母さんにも、幾度となく耳に入ってきた、この家のむかしばなしがあるわ。

 お祖父ちゃんのお父さん。二玖の曾お祖父ちゃんにあたる人ね、お偉い海軍の将校さんだったの。その人が、国からこの土地を譲り受けた。戦争で活躍した褒美として。だから元々、霧野の人間はこの土地の人間ではないの。重願寺の宿坊を全く由縁もない人間が自分の私的財産にしたことを、疎ましく思われても当然だと思うわ」


「そんな人たちに認めてもらいたくてキリシタン信仰を始めたのかな?」


「認めてもらいたい、か」

 母は言葉を選びながら続ける。

「何を、認めてもらえたら、よかったのかな」


 何も認められなかったけれど、という意味に聞こえ、二玖は母を見つめる。


「お祖父ちゃんがいつから、この地域のキリシタン信仰に染まったのか、定かではないわ。ただ、土地に受け入れられない、ということが身に堪える人と、そうでない人がいると思うの。曾お祖父さんは海軍のお偉いさんだった、って言ったでしょ。いつも外の世界にいて、時々帰ってきては海外の書物や珍しい品々を持ち帰った、と聞いたことがあるわ。そんな父親とは対照的に、その息子、林太郎は、ほぼこの屋敷とその周辺を生活圏としていた人だった。平日は大学で解剖学の講義。休日はひがな一日じゅう、庭で剪定をしていた。そして毎晩、一日も欠かさず、あの部屋。ほら、今は絵が掛けてあるけど、前はあの額の中に絵はなくて、ただじっと額の前で頭を垂れていたわ。気づいたらそこにいる、という具合にじっと」


「この土地のキリシタンの人たちと交流することはなかったのかな」


「本心ではしたかったでしょうね。でもやっぱり受け入れられないと知っていたから、最後まで、独自のやり方で信仰していたんじゃないかしら」


「本当に神を信じていたのかな」

「信じる、というか、信じて、だったのかも」

「信じて?」

「信じてください、って誰かに言い続けたかった。そして時間に、信じてもらったのかしら。自分の時間をそこにつぎ込むことによって」


 母は遠い目をした。二玖は、「ちょっと待ってて、」と台所に降りて紅茶を淹れ、二人分、母の机の端に並べた。

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