第34話 寄贈された地図

 

 古い地図を持って、多古田さんがここへきたのはそれから二週間後、八月の暑い日だった。


「地図がですね、あったんですわ」


 そう言ってテーブルに広げられた大きな地図は折り畳み線が擦り切れ、黄ばんだ別の紙で四隅が補強された、古いものだった。


「この辺り一帯の古地図です。もっともこれは複写ですが」

 相当前にコピーされたものなのだろう。コピー機に挟まれた時にすでにあった本体の畳み皺は黒く写りこみ、さらにそこが折り畳まれ補強されている。元々地図上に書かれている線と、あとから写りこんだ線を見分けるのに目がちらちらしてくる。けれどしばらくすると慣れ、地図らしきものが浮かび上がって見える。

「区割りが今とは大分違っていますね。あ、でも」

 二玖はじっと目を凝らした。

「わかりましたか」


「違うのはここにある小さな囲みだけかも」


 四箇所どの地名もよく知っているのにひとつだけ、その四箇所をまたぐようにしてある小さな地名に馴染みがなかった。


「井手牛。イデウシ、ですか…こんな地名、聞いたことありません」


「七、八十年前に村が町に統合されて井出牛村はなくなったのです」


「地図はどのくらい前のものですか」


「二百年くらい前。江戸の末期、千八百年代後半です」


多古田さんの手が一旦お茶の方へ伸びた。

「実はもう一枚ありまして、」

多古田さんは立ち上がり、筒状に丸められた大きな画布を広げた。


「これは、うちに寄贈されたものです」

「え、」

 一瞬、時空を揺さぶられたかに思えた。その絵はここにあるはずがなかった。ここではなく、学校の渡り廊下にあるか、または…。いや…


 そっくりだった。そのものでないとすれば、そう表現するしかなかった。

 びっしりと隙間なく小さな葉っぱが描き分けられ散りばめられている。それらはひとつひとつ形が違っている。葉の先がもみじのように分かれたもの、柊のように周囲がギザギザと尖ったもの。ハート型のもの。相当な細かさで根気よく描き分けられた葉の数々。何か一定の流れのようなものを持って画面全体を優雅な気配で覆っている。

 

「誰の、絵ですか」


 自分の声が不自然な電子音のように感じる。


「寄贈されたというのは亡き父から聞いた話で、どこのどなたから、どういう経緯で譲られたのか定かではないのです」


「そうですか」

 努めて冷静に話す。


「これは地図だそうです」

 多古田さんが思いがけないことを言った。


「地図?」

「わたしもそうは思えませんが、これは『地図』として寄贈されたんだそうです」


「これが…」


「地図とは何だと思われますか」


「地図とは?ですか。どこに何があるかわかるもの、では」


「その逆もあるのです」

「逆?」

「つまりどこに何があるか決して知られないように。ほら、宝の地図ってあるでしょう。あれは読み解くことができる者だけが宝に辿りつく。大切な場所を知られてはいけないのです」


多古田さんはにやりと笑った。何か言わなければ負けてしまうような気がした。

「それでは、この絵はあえて隠すための地図、と」


 多古田さんは何も言わない代わりに立ち上がると、窓から外を見て、全く別の話しを始めた。


「この辺り周辺が井出牛村であった証として今も残っている痕跡があります。この周辺の家に特徴的なことです」


 この周辺の家の特徴。二玖はいつも目にする景観を思い浮かべた。何の変哲もない、土塀の続く通り。延々と高く、崩れそうになればそこだけ修復されて新しい壁になり、高さだけは変わらず一定の。


「ああ、もしかして、壁ですか」

 そういえば、特徴なのかもしれない。そのことで全く目立ちはしないけれど、あえて特徴かどうかと考えた時、他との差異を挙げるとすれば各家々の境界の塀が少々高い。

「高すぎませんか」


「高すぎます、よね。…そうなんです。それはね、やはり、他の色々な街を歩いて初めて気が付くことなんです。なぜなら、井出牛の人間は決して目立ちたくないのです。むしろ、他と同化していなければならない。塀が高い家は他にいくらでもあります。でも、どの家も一様に高い地域となると、多くはない。ここ、旧井出牛村の特徴に挙げられてしまうのです。不本意ながら」


「不本意でしょうか」


「ここにかつて暮らした人々の、本意は別にありますから」


「本意」

 ああ、と思い当たる。この人はキリシタンのことを言っている。

「わかります。多古田さんの言わんとするところのもの」


「イワントスルトコロノモノ」

 多古田さんが唱える。


「多古田さんが言うと、何だかおまじないみたいですね」

 冗談めかして言ったつもりだったが、すかさず多古田さんは低い声で言った。

「キリシタンが、唱えた、ですか」

 『キリシタン』という言葉を、当たり前に使うことが意外だった。


 二玖は尋ねた。

「寄贈って言ってましたよね。うちに寄贈されたって」

 多古田さんはずずっと残りのお茶を飲み干すとにっこり笑った。


「わたしは代々続く寺の出なのです。ほら、この坂を下ったところにある、」


 

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