第29話 労働のためのエプロン

 


 エプロンの紐を結わえ直すと、傘佐木さんは書棚を抜け忙しくあちこち動き回る。


「あなたは皆様にコーヒーをお出しして」

 女はカウンターに座り、ゆったり構える。


 指図された二玖に、傘佐木さんがすかさずエプロンを渡す。

「あれ?これ、どうしたんですか?」


「あなたのために、クロウさまが縫ったんじゃよ」

 淡いブルーグレイの生地で、胸元に「Owl」と刺繍されていた。


「オウル、ですね」

 二玖は馴染みのある英単語を口にした。


「ああ、そうじゃそうじゃ。あたしは英語はちょっと。ええっと意味は…」

「ふくろう」

すかさず二玖は言った。


「森の賢者フクロウ。いつも、おばあちゃんにオウル、と呼ばれていましたから」


 傘佐木さんのエプロンは深い藍色。クロウという女のエプロンは漆黒。そしてわたしのは淡いグレイ。ちゃんとエプロンが用意されてるって、気持ちが良い。


「さあ、いっしょに働くんじゃよ」

 傘佐木さんに連れられて給仕室へ入ると、小さな台所があって、硝子棚にはコーヒーカップが並んでいた。


「うわあ、どれもこれも渋くて味がありますね」

 所狭しと積み上がるカップは手びねりの焼き物でひとつひとつ釉薬の色合いが違う。


「なかなかいいじゃろう。わたくしが作ったんでな。そうしてほら、読書に一番似合う飲み物はこれ」

 奥の食品庫からあっぷあっぷいいながら傘佐木さんが抱えてきたのは大きな麻袋だった。


「いい香り。コーヒーですね」


「紅茶は会話を楽しむ飲み物。緑茶は自分自身と向き合う飲み物。そしてコーヒーは空想の世界へ旅立てる飲み物」


「なんかそれ、わかります」


「あんたコーヒーがお好きかな?」


「はい。コーヒーも空想するのも大好きです。そういえばうちにもコーヒーにうるさい人がいて、いつも香りが漂っていました」


「あら。どなたかな?」


「今はあまり、こだわることさえできないんですけど。例のスケッチブックの持主です」


 (そうだ。おばあちゃん、コーヒー豆を買いに、よく遠くの店まで出掛けていたな)


「好きになるっていろんな理由がありますよね。コーヒーが好きなのはその味が好きだけではなくて、それが在る空間が好きなのかもしれない。コーヒーがあると時の流れがゆったりとして、静かで。それに飲む人がみんなどこか遠い目をしていて」


「ここに来るひともそうでな。必ずしも本を読みたくて来る人ばかりじゃないでな。本のある空間を求めて、来る人だっておる。本というもんは、とてつもなく静かなんじゃな。大量の文字を埋めておるのに」


 傘佐木さんは閉眼し、腕を組んで思考を巡らせる。そしてふと疑問に思った、というように目を開けてこちらを見つめる。


「あんたはどうしてここへ?」


 返答につまる。理由などあっただろうか。


「わたしが来たかったんじゃなくてスケッチブックが」


 来るつもりもなかった場所が、当たり前に、行き先のひとつに加わっている。これも何の変哲もなかったはずの日常の延長上。



 傘佐木さんと一緒に、来館者に対してコーヒーを給仕する。忙しくも楽しい時間を、過ごす。


「これ洗い終えたら作業部屋へ来るかな?ろくろがあるのよな」


 傘佐木さんは空になったコーヒーカップをひょいひょい集めて流しへ入れると豪快に水を流しながらカップを次々と二玖に押し付けた。

 いくつも拭いて、拭いているんだか布巾を濡らしているんだかよくわからなくなった頃、流しの水は止まっていた。

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