第28話 譲渡会
気が付くとまた、私立図書館の方へ向かっていた。
二玖に気が付いた女はあからさまにいやな顔をした。
「あら、また来たの」
「ここで働けって、あなたが」
「馬鹿正直な子」
「今日は忙しいから、あなたには構えないわ」
「何かあるんですか」
「譲渡会よ」
格子扉が地面を
「今日はどんな傘佐木さんだろう」
ころころと人の変わる傘佐木さんが、二玖はちょっと苦手に感じていた。
でも。
─今はとても穏やかそうだった。整理券を配る手の仕草がゆったりと丁寧だった。
(こないだの傘佐木さんなら、上からばら撒きそうだもの)
来館者たちは皆、表情をなくした青白い顔で歩みを進める。整理券をもらっても、落ち着きなく前進する。
「さあさあ、みなさま、ご安心を。それぞれに一冊ずつ、一番ふさわしいものをすでにご用意してあります」
傘佐木さんが声をかけると、来館者たちは控えめな歓声を上げる。
「未知の世界に出会える」
「まだ感じたことのない価値に」
「思いも及ばない結末と」
口々に上がる高揚した声は、傘佐木さんがすっくと立ち上がると、鎮まった。
「では、静粛に」
密やかに、傘佐木さんは番号を読み上げる。来館者たちは順繰りに本を受け取っていく。
全ての本の腹に、朱印で「贈」と押されている。そして表紙には「写本厳禁ナリ」という封印だ。
「今日はね、ここに収蔵している本の作者たちをご招待しているのよ」
女が二玖に耳打ちする。
「へえ。日頃の感謝を込めて、ですか?」
「まあそうね、彼らの創造力への感謝、だわね。図書館だからできる恩返し、とも言えるわ」
「恩返し?」
「そう。彼らの創造力によって生まれた世界が、本の中には広がっているでしょう。それらは全てかけがえのない世界。でもね、やっぱり偏るのよ」
「偏る?」
「独りだけで世界を創ろうとすると偏るの」
女の真っ黒いドレスが薄暗い図書館の中で闇を深める。
「彼らはその偏りを自覚し難い。でも確実に偏って、いつの間にか自分の作り出した世界の端まで行ってしまうの。すると一番広くて薄い空間から崩れ、端の小さな隙間に閉じ込められてしまう。二度と、現実の世界には戻れない。そうならないように、わたしたちはお手伝いするのよ。彼らに生まれつつある偏りを補正するよう導くの」
「どうやってそんなことを?」
「簡単よ。本を提供するの」
「特殊な本ですか」
背の高い女の顔を見上げる形になる。きれいだ、と二玖はつい見とれる。
「いいえ、ただの本よ。でも選択は重要。作者に合わせて工夫する。偏りを補正できそうな、新たな価値をもたらす、それぞれにとって新鮮な、本。例えばほら、あなたが持ってきてた、」
「あ、スケッチブック」
「そうよ。個人的、ごく私的な絵画的記録。それはつまり、個人の膨大な、」
女の言葉を、二玖が引き継ぐ。
「膨大な内省と、取るに足らない出来事の羅列」
「なによ。いやに説明的ね」
「この間、あなたから聞きましたから。…だけどそんな個人的な記録が本の作者たちのお役に立つんですか?」
女は頷き、きれいな二重まぶたをゆっくり閉じて言う。
「どんな物語も、日常から始まるの。個人的日常のほんのちいさな綻びから」
「小さな綻び……」
するはずじゃなかったこと。ふとした間に、まるで自分じゃないみたいにしてしまったこと。
「たいしたことではないのよ。人生がひっくり返るような重大な転換なんて何一つ起こらなくて構わない。ただ日常の中に起こる小さな綻び」
ただちょっと色合いを真似してみたかっただけ。そうしたらどんどん筆が進んでしまって。
「──どっちが本物か、わからなくなったんです」
「それで消したんじゃな。いや正確にいうと、埋めた」
ふいに傘佐木さんの声に変わり、隣にいるはずの女は背の低い傘佐木さんになる。
すると向こうから
「あなた、まだいたの。あの白紙のスケッチブックには手を焼いているの。譲渡会にも出せやしない」
「あ、あれはわたしのものではなくて、」
二玖の言葉に女はすかさず言葉を継ぐ。
「…きっと館長は、誰のものかは問題にしていない」
館長と呼ばれた傘佐木さんが二玖を見つめる。
「中身が白紙だったことが問題でな。白紙の本は読者が自由になりすぎる。それで滅んだ図書館だってあるんじゃ。日記帳には日記が埋まっていなければ、本には物語が埋まっていなければ、スケッチブックには絵が埋まっていなければ、それは勝手に別のものを埋めてしまって、全く違うものになってしまう。それが本物とみなされて、本物が白紙だったことなんて誰にもわからなくなってしまう。そうするとな、本来作者だった持主が、いざ、描こうとしても、もう余白がない。そして描く気持ちさえ失くしてしまう。もうすでに在るものを産み出す必要なんてない、そう思わせてしまう」
(白紙を、白紙のまま放置していたら、別のものが埋まる……?)
「譲渡会は自信を失った作者のためにある。長い間、次の作品を生み出せない作者を厚くもてなすんじゃ。そしてそういう作者には、できる限り、何の変哲もない日常が綴られたものをお勧めする」
「どうしてですか」
「全てはここから始まる、と思い出してもらえるように」
傘佐木さんは、日記帳やメモ帳を広げて静かに読み進める人々を見回し、満足すると給仕室へ入りお湯を沸かし始めた。
「さあ、次は団欒の時間」
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