第27話 シロタさんの来店

 

  八月一日。暑かった。

  呼び鈴が鳴り玄関の戸が開いた。


 「こんにちは」


 真っ黒の髪の毛を一束ねにして日傘を差したフランスさんが立っていた。


「こないだは大変だったねえ」


 ──こないだ。

 踏み絵の模写会。

 不意にフランスさんが異界の人に見えてくる。


「お店は開いてる?」

 二玖が応えるより先に、廊下の向こうから母が言った。

「今開店しますよー、どうぞ」

 二玖もフランスさんに対してうなずく。


「こちら、母」

 フランスさんは会釈をし、「シロタです」と言った。


(しろたさんっていうんだ)

「何かお目当てのモノがあるのかしら?」

「はい。フランス語の古い辞書なんです」

 母とシロタさんは店のほうに歩いていく。二玖は急いでサンダルを履くと後ろをついていく。


 店は決して店らしくはなかった。木造の自宅に対しここは石造りでお堂のように天井の高いがらんとした広さのある空間だ。


「ここに辞書みたいなものまで、あるの?」

 二玖は母に尋ねてみる。


「本屋に売ってるようなのは、当然置いてないわよ」

 (本屋に当然ない本が、ここにはある、かあ…)

 社会における骨董屋の役割は如何に。…と二玖は思い巡らせる。もう誰も必要としていないモノ。いつか誰かが必要とする日…。それまで取っておくところ…。


 一方シロタさんはほっとして言う。

「わたしが探してる辞書、本屋にはなかったです」


「じゃあここにあるのかも」

 二玖はつぶやく。

 巡らせた思いはいつのまにか終結している。


 フランスさん改めシロタさん、それから母が陳列棚を眺めて歩く。


「ここのモノたちはどれもまっすぐ、過去にだけ向いていますね」


「そうねえ。時の流れが止まっちゃってるかも」


 母とシロタさんは書籍の並ぶ一角を見渡す。


「わたしここへ来る途中、ちょっと生垣の中に入ってみたんです。それほど茂っていない部分からもぐり込んで」


「まあ、そんなところあった?」

 母が驚いて尋ねる。

「ええ、ぽっかりと」

 シロタさんが「このぐらい、」と両手で丸を作ってみせる。


 心当たりのあった二玖は、どこだかすぐに見当がつく。


「枝は外側でびっしり枝分かれしている分、中は案外空間があるんだなあって。立ってじっと外を眺めることもできました。それで不思議に思ったんです。生垣の外側にいると全く生垣の内側は見えないのに、生垣の内部では、自分の外側ぐるりが透けて見えるんです」

シロタさんの上に土蔵の明り取りから光が差し込む。


「生垣の中から外を眺めていると、自分という存在が始めからない世界を見ている気持ちになるんです。ここに陳列されている物も同じかもしれません。陳列されている間だけはそのモノの役目を果たさなくて済むから」

「博物館みたいなものかしら」

「博物館?」

「ガラスケースに収まって、塵もほこりも被らずに、時代も流行も感情も遮断されてただそこに存在しているだけ」

「そうかもしれません」

母とシロタさんは何かはかるように会話していた。


「生き返る」

 呪文のようにフランスさんはつぶやいた。

 そして続ける。

「やっぱりモノは、モノそのものだけでは生きられないですよね」


 母は今のが質問だったと気付き、答える。

「そう、かもね」

「だったら、モノ同然の人間は、どうでしょうか」


「モノ同然の人間?」


「ここに置かれたモノのように、ひとりで居すぎた人間です」


 母は少し間を空けて言った。

「ええっと、それはどういう状況かしら」


「わたしには長い間、言葉というものが存在しませんでした。あんまりひとりで居すぎると、自分ってものがどこまでなのかわからなくなるんです。皮膚で囲まれた内部だけなのか、この、足の裏の接する部分も含むと定義してもいいのか、部屋の四角い空間も含めて自分なのか。どこからどこまでか、決めてほしい気持ちになりました。わたしがここにいるということはあなたはここまでいるということだよって」



 二玖も母も、無言で聞いていた。


「境界線を示してほしいというか。わたしがどこまで近づけばあなたになるのか、あるいはならないのか」


 母が控えめに言った。

「辞書、さがしましょうか」


 しかし辞書なんてもうどうでもよくなったようなシロタさんの横顔が再び逆光になって立体感を失っていた。


「どちらかというと物のほう。自分自身はこの、体だけではなくて居る空間自体も自分で。場所から『自分』だけ外して取りだすことができない。時間は同じ場所で渦を巻いていて、わたしはその中心でじっと渦巻きを観察するんです」


母は修行のようにじっと聞いていたが、タイムね。と断ってから開店の札を引き戸にぶら下げに出た。

 一方シロタさんは続ける。

「…残念ながらわたしの周りにはモノしかなかったのです。モノだけが溢れていました。モノに埋もれたわたしの時間がわたし以外の人間にとって何の価値もないかわりに、せめてわたしにとっての意味をみつけたくって。じーっとしていた時間の、何も生み出さなかった時間の、それでも存在し続けた自分自身の過ごした時間の意味」



 シロタさんのこれまでが、ともかくどことも繋がりのない時間と空間であったらしくて、その事実を一方的に吐き出したあとの、それまで溜め込んでいた内側を、シロタさんはひとり飽きることなく覗き込んでいた。


「わかったわ」

 独りよがりの独白を、制止したかたちになったことを母は多分少し後悔して、言い直した。


「いえ、きっとわかってはいないんだけど、いつかわかるかもしれないからちょっと保留ね。頭に、いれておく」


 母は、何年も売れずにほぼ店の備品のようになっている木のまる椅子を勧めると店の奥からお白湯さゆを一杯持ってきた。


「開店直後はここでいつもお白湯を飲んでるの。開店っていってもわたしにとって店は休日の楽しみだから」


 平日は軽トラで廃品回収しているから、開店の日は母にとってゆったり過ごせる日なんだろう。


 次第に背中が丸まって椅子に埋もれるように座ると、シロタさんはコップを手にとり、もにょもにょ、と言った。さっきはあんなにはっきりくっきり演説したのに今は元のシロタさんだ。

 椅子にふわりと掛けられた黒と白の毛布のように丸まるシロタさんは何かの本で見た珍種動物に似ていた。


 母が急に相槌を打った。

「ねえ、あなた、走ってみたら?」

「走る?」

「マラソン」

「はあ」


 シロタさんは自分の、くびれのないふっくらした両足首辺りに視線を落とした。

「でも、なぜ?」

 母につぶらな瞳で問いかける。

「そうね、理由。理由」

「ないんですか、理由」

「きっと後でわかる類の理由なの」

 シロタさんは不安そうに椅子に埋もれていく。


「あなたの言ったことだってきっとそうよ。申し訳ないけど理解したなんて言ったら失礼だから正直に言うわ。よくわからなかった。ごめんね」

シロタさんはぶんぶんと首を振る。


「いいんです」

 いつのまにか太陽は高く、生垣の影はほんの短い帯となり通路は白く浮き上がっていた。シロタさんは時間をかけてお白湯を飲むと、緑に囲われた白い道を手ぶらで帰っていった。


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