第26話 部屋の整理



 家に帰ると居間には来客中で、誰かが母と「見積もり」とか「工期」とかいう単語を飛び交わしながら、どうやらこのうちのリフォームについて話し合っているようだった。

 作業服のおじさんがようやく玄関を出て行くと、二玖はテーブルに残されていたクッキーをひとつつまんだ。

「あ、おいしい」

 ざらめがまぶされていてじゃりじゃりっのあと、さっくり。


「母さん、今のひとは?」

 一枚で十分幸せな気分になって、クッキーの入っていた缶カンの裏書きを眺めながら尋ねる。


「工務店のひと。こないだの長雨でお風呂場の天井が致命傷を受けたみたい。この家がいつからあるのか母さんもよく知らないけど、戦争で無事だったっていうから相当前よ」


「お風呂場、新しくなるの?」

「そうね。少なくとも天井は全体的に傷んでるようね」


「どんなお風呂になるの?」

「どんな、ねえ」


 美樹は腕を組み、考え込む。

 二玖は釣られて同じように腕を組み、自分の意見を言ってみる。

「…今のお風呂、嫌いじゃないんだよねえ。タイルの雰囲気なんて大正モダンだし」

 少しずつ色味の違う深みのある青が、リズミカルに並ぶ、お気に入りのお風呂。


「そうなんだ、オウルもそう思ってるのか。実は母さんもなの。だから残せるものは使ってもらいたいっていう話してたとこ」

「うん、きっとばあちゃんも喜ぶ」


 祖母は相変わらず生垣のあいだを歩いていた。

「それでね、お風呂場の天井をやりかえるとなると、お風呂場の屋根と上下で隣り合ってる、」


「わたしの部屋?」


「そう。そこも少し手を入れないとならないって」

「ふうん、」

「部屋、整理しないとね」


 二玖は自室に戻って改めて、そこにある物を検分した。最小限の学用品と、籐のかご二つ分の衣類。


「あとは全部、この家に元々あったもの」

 誰に言うでもなくそう言ってみたものの、でも誰が片付けるかということになると結局自分しかいなかった。


「放置して、困るのは自分、かあ‥‥」


 本棚に、溢れんばかりに詰め込まれた書物。

 最後に手にとられたのはいつなんだろう。おばあちゃんがあんなふうになって一年は経つ。もうきっと何年もこのまま棚に眠って、本の中の世界はじっと閉じられている。


「これだけ有っても、中身を知らなかったんだからね、」

 手近にあるものを無作為に取り出して頁をめくってみる。


「ちんぷんかんぷん」


 英語は得意だけど、これはどうやら、フランス語か、イタリア語か。

 二玖の記憶のなかで、祖母といえばやはり、絵だ。美樹が言うには、祖母は、絵を描くことは呼吸するのと同じこと、彼女の体調を整える手段のひとつ、それくらい日常的に絵を描いていたという。「不思議と色のない絵を好んで描いていた」との、母の記憶どおり、この部屋にある祖母の絵の殆んどがモノクロームだった。


 二玖がここへ住み始めたとき祖母はすでに、物忘れのひどい危なっかしい状態で、祖母よりひとつ上の祖父は、頭はしっかりしていたが、肺がんの治療で定期的に通院していた。

(読書を楽しむ様子は祖母にも祖父にもなかった。まして、洋書なんて)


 スケッチブックを取り出した部分だけ、数センチの空間があった。


 びっしり埋まっていた本棚にぽっかり空いた、本と本の隙間。向こう側がこちら側だとしたら。


「可能でございます」


 誰かが頭の中で返事をする。


「向こう側へ行けば、向こうはこちら、になります」


 聞き覚えのある傘佐木さんの声だ。


「枠さえあれば、大丈夫。入り口も出口も確保されたことになります。さあ、おいでなさい」


積み木のように並ぶ背表紙と背表紙の細長い隙間に手を伸ばすと、しっかりと触れる背表紙があった。

 

「ルドンだ」


 それは先日図書館で見せてもらったものと同じ画集だった。一番下の段から引き出しそのまま床に広げて頁をめくる。


「あ、」

切り抜かれた頁。二玖は、その頁に在ったはずの絵が、今どこにあるかはっと確信した。あの、額縁の中だ。

 頁の、四角におおきくりぬかれた部分の下に、なにやらルドン本人が言ったとされる文章が添えてあった。


『私は白い紙が嫌いだ。だから紙がイーゼルの上にあるのなら、仕方なく、木炭か、鉛筆か、他の何かで殴り描きせざるをえない』


 白い画面を白でなくする。何かで埋める。


「埋める‥‥」


埋めなさい。と女が言っていた。ルドンは何を、埋めざるをなかったんだろう。


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