第25話 模写

 


 鉄格子の鍵をガチャガチャと解錠する音と共に傘佐木さんが入ってきた。


「あれ、全く筆が進んでないじゃないかい。どうした。忠実に再現してくれなきゃ困るんだ。しかも早急にね」


「何をそんなに急いでいるんですか」


「踏まれ続けた絵はね、不思議ともう、踏みとどまる人間を生み出さない。つまり踏み絵として役に立たない。そんな絵ばかりになってしまってね」


「踏み跡があるからですか」


「やっぱり、踏み跡があると踏んでも構わないと思うかね」

 計るような目で二玖を見上げて老婆は言った。


「ここからはもう、信心の強弱とはあまり関係のない話になる。絵の力の問題だ。何枚も同じ絵を模写させて、数を増やす。それらを日々踏み絵に使って、一度も踏まれなかったのが、本物になる」


「本物はオリジナルの最初の一枚、ではなくて?」


「違うのさ」


 老婆の皺が不気味に深まる。

「最初に描かれた絵かどうか、誰が描いた絵なのか、は問題にならない。いくつも同じものがある中で、誰にも踏まれなかった絵、それが本物だ。踏まれたのは、踏んでもいいと無意識下で感じられたからだろう。一方で、踏まれなかった絵とは、隠し通そうとした本心がつい、表層に引っ張り出される、そんな力のある絵だ」


「そんなものですか」


 模写を命じられた眼の前の絵は、暗がりの中でぼんやりと照らされ、見えないに等しかった。それに、どんな絵が本物かを説明されたところで、実際に描けるかどうかは別だ。鉛筆を握ったまま、二玖はじっと暗がりを見つめた。

「要するに、描けばいいのよね。見えたままを」

 理解した、というように深い呼吸で姿勢を整えるとフランスさんはシャカシャカと軽快な音を鳴らし始めた。


「見えた、まま?」


 同じ暗闇にいるフランスさんには、何が見えるのだろう。薄汚れて、擦り切れた絵を、見えないに等しい頼りない灯の下で、どうやって写すというのか。


「あ、」

 恐らく、使い古しの短い蝋燭だったのだろう、ふっと明かりが消え、辺りは真っ暗になった。


「何も見えなくなった」


 フランスさんはぽつりとつぶやく。


「当然ね。だってここ、地下だもの。地下書庫。光はなくてもいいのよ。誰もここで本を読んだりはしないから」

「絵を写したりも?」

「しないんでしょうね」

 ひたすら鉛筆の擦れる音が響く。

「ただ、保管する場所」

「じゃあ、一枚くらいなくなっても、」

「わからない」

「一枚増えても、」

「わからない」



「仕事ははかどったかい」


 何時の間にか、老婆が立っていた。


「おや、できているね」


 見たこともないくらい太い蝋燭が新たに灯され、フランスさんの手元がくっきりと照らし出される。

「おお、できたね」


 画面一面、ただ、塗り込められた闇だった。


「これが、ですか?」


 二玖の言葉は聞こえなかったように、老婆は満足そうに頷くと、立ちはだかっていたドアの前から一歩引いて二玖たちを外へ出した。


 廊下を引き返すと灯りのついた喫茶室へ出た。

「ようこそ。仕事ははかどった?」

 女がコーヒーを沸かしていた。

「まあ、今日は意志の確認だけでして」

 エプロンの前で両手をすり合わせ、傘佐木さんは答えた。

「あらそうなのね。ではまあ一杯どうぞ」


 女は元の女に戻っていた。傘佐木さんはただの掃除婦に早変わりだ。

 女は席を勧め、二玖とフランスさんはそれに従った。フランスさんはまた小声でささやいた。


(わたし、ちょっとコーヒーは苦手なの。飲んだ日はいつも不眠)

 それでもフランスさんは滑らかな手つきでコーヒー碗を手にとった。二玖もそれに習い優雅そうに器を包み込んだ。いつかどこかで同じ器で、同じようにお茶を戴いたことがあるような気がしたけれど、よく思い出せなかった。

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