第23話 傘佐木さん


「おや、先日の」

 カウンターに座っていたのは女ではなく、女の皮膚をいっぺん引き伸ばして縮めたような、老婆だった。


「いらっしゃい。納書?それとも閲覧?」


「ルドンの画集があれば是非」

 二玖は努めて慣れた風に言う。


 老婆は苗字の刺繍されたエプロンをつけていた。「傘佐木」とあった。

「かさ、さ、き、さん?」


「カササギ、ですよ」


「ああ、鳥のなまえですか?」


「そんな鳥がいますねえ。でも、わたくしは鳥ではなく、人間として生きてきました。一応ね」

 さて、と、傘佐木さんは、自分が今きちんと人間であることを確認するように、カウンター脇の細い姿見を見る。小柄、というより「縮まった」傘佐木さんの全身が映っている。


「絵に興味が?」

探る瞳が、黒々と艶やかに二玖を映す。そのとき一瞬、背後の姿見に自分がもうひとり、またひとり、と延々連なって鏡の中に列を連ねているような錯覚を覚えた。はっとして振り返るが、映りこむ自分はひとりだった。


 傘佐木さんは両手でエプロンを軽く握り、いそいそと書架へ消えていき、しばらくすると大きな画集を抱えて戻ってきた。

《キンタイシュツ》

 背表紙には、特別な赤枠のシールが貼ってある。

「禁帯出。持ち出し厳禁、ということですな」


 布張りの表紙には横文字が装飾的に並んでいて、多分、「ルドン」に違いないが、何と書いてあるかわからなかった。

「どーら、」

傘佐木さんが頁をめくると、繊細な植物画が優雅に描かれていた。額縁の絵とはまた違う花の絵。


「ルドン、ルドン、さて誰だったか」


傘佐木さんは眉根をひそめて深刻そうに考え込んだ。


「これがルドンの絵ですよ。ルドン、と書いてあるかどうか読めませんけど、間違いないです」

 本を壁に立てかけ、遠くに離れてみたり、近づいたりしている傘佐木さんは、二玖の言葉がきこえなかったようにうっとりして言った。


「繊細で、しかも神経質。それから少し物悲しくて奇妙。思い出した。これはあたくしの描いた絵」


自分の口から出た言葉かと思って二玖は思わず辺りを見回した。


「いえいえ、ルドンです」


 さらに構わず、傘佐木さんは朗々と話す。

「この画集を出したのがおそらく若かりし二十代。徐々に認知機能に問題が生じて、それ以来記憶が曖昧になってしまって。どこからどこまでが本当に起こったことなのか。わたくし自身のことであるにもかかわらず、わからぬのですな」


(自分のことも、わからない?)

「少なくともこれはあなたの絵じゃないと思いますが」


 老婆はふおっふおっ、と目を細めて笑った。


「ええい、馬鹿を言う」

 そう放言すると、二玖のために持ってきてくれたはずの画集を、独占して鑑賞し始める。


「傘佐木さん。何してるんですか」

 いつからそこにいたのか後を振り返るとあの女が睨んでいた。


「申し訳ありません。おすすめの画集を、と思いまして」


「傘佐木さんは仕事に戻ってください」

 女は命令口調で言い、画集を改めてめくり、一頁ずつ検閲でもするように隅々まで眺め始めたが、そのうち手が止まり腕組みを始めた。


 それを見た傘佐木さんが女に尋ねた。

「どうされましたかな」


「ここ。切り抜かれた絵があります」


「おや、こりゃ大変」

 傘佐木さんも、深刻そうに覗き込む。


「花の絵がありましたか」

「いえ、木でしょう」

 ふたりは、言い合いを始める。


「マナーの悪い利用者がいるものです」

 そういい捨てると女は壁に立てかけていた画集を奥へ持っていってしまった。女がいってしまってから二玖は一段と小さくなった老婆に尋ねた。

「どうかしましたか?」


 ほぼ皺でできた笑顔が振り向く。


「傘佐木さん?」


「はい?」

 次第に総入れ歯が浮き上がってくる。


 書棚の奥から戻ってきた女がカウンターに入ると、傘佐木さんは忙しそうに掃除を始めた。

 手持ち無沙汰になった二玖は仕方なくカウンターに戻り、女の様子を見ていた。

「傘佐木さんって、ここの従業員さんなんですか」

「そう思ってくれたらいいわ」


 女は俯いたまま何か縫い物をしている。

「傘佐木さんとあなたって、全然違うけど、何かが似てますね」

「あら、そう?」


 女は顔を上げ、からりとした声で言った。

「傘佐木さん、ってお名前はわたしが付けてあげたのよ。とても気に入ってくれたわ。図書館司書の傘佐木さん」

 

「エプロンもわたしが縫ったの。名前の刺繍には苦労したわ。今は、わたしのを縫ってるところ」

女の手元には、刺繍の丸い木枠があって、黒の生地に黒糸で何か文字が刺してあった。


「よく、見えませんが、何と書いてあるんですか」

「クロウよ」


そう言われてよく眼を凝らすと「Crow」と書かれている。


「あなたは、クロウ」

 二玖は口の中で小さくつぶやく。


 英単語は数え切れないほど覚えたつもりだったのに、まだ知らない単語があったとは。


「さあできた」

 手早く玉結びをして糸を切ると、枠から外して生地を整え、女は話を続けた。


「わたしには、もうひとつ名前があったんだけど、忘れてしまったわ。傘佐木さんがきっと知ってるんだけど、彼女はもう自分のこともわからないから、わたしの事情なんてとっくに忘れてしまったでしょうよ。で、あなた、何しに来たの?」


クロウ、の意味を尋ねそびれたまま、自分がされた質問に、二玖は答えた。


「何しに、って…。本を借りに。ほら、さっきの画集です」


 言ってから思い出した。ここでは、借りる側ではなくて、働く側の権利を持ってるんだった。

 

「何も描いて書いてなかったじゃないの。あの、スケッチブック」

 女は詰め寄る。


「きちんと返しなさい。借りたものは返すこと」

「あれはわたしの祖母の物で、」


「誰のかなんて聞いてない。中身はどこへ隠しているの?」

「いえ、元々何も描いてなかったんで…」


「そんな嘘は通用しないの。どうやって消したの?」

「消してません」


「でも、消されている」

「だから、元々…」


 いつの間にか傘佐木さんがいて、女は伝えた。

「館長、極めて危険な事態です」


 傘佐木さんは深く頷く。

「消滅を目論む潜入者じゃな」


 腕組みをした傘佐木さんはもう、傘佐木さんではなく「館長」だった。

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