第22話 入口の絵


「ただいま」


 小声で玄関をそっと開けたが、まだ母は帰宅していなかった。


 二玖は何となく落ち着かなくて、コーヒーをひとり分用意して、地中喫茶室でゆっくりと飲んだ。


 真正面の、私立図書館への入り口を示すルドンの絵が否応なく目に入る。黒い線だけでできた黒い絵。


「まっくろだ」


 それは、さっき目にした岬青年の質素な着物の黒と同じに思えた。改めて思い返すと形の変わった着物だった。修道服、とも言えるかもしれない。あの黒はどんな信心もとりあえず呑み込む色なのだろうか。


 真っ黒で、真っ暗な、絵のなか。私が塗りつぶす黒は平坦な面でしかないけれどルドンの黒は空間を感じる。向こう側が存在する余地。あの着物の黒のように光も影も呑み込んで、ひっそり祈る人々を、覆い隠し続ける。


 何となくしか見ていなかったこの絵のことを、よく知ったのは、つい半年ほど前のことだ。 


 絵が賞をとって知らない学生から声をかけられたり、職員室に行くたびにほめられたりする、そういうちょっとした熱狂が冷めたころ、真冬のデッサン室で偶然、これと同じルドンの木炭画を目にした。

 地中喫茶室に掛かる絵だ、とすぐにわかった。木炭デッサンは、二玖も散々描いていた。木炭の黒と画面の白だけで空間を構成し、陰影で世界を表現する。

  

 若くから晩年の入り口まで、長い間色彩のない黒一色の絵を描いたルドンの、色を持たなかった理由は様々に憶測されているけれど決定的な理由は知らない。理由なんてないのかもしれない。『紛れもない事実には紛れもない理由が存在する』そうとは限らない。全ての事実に理由があるとは限らない。絵を描く理由、描かなかった理由、描けなかった理由。それらが説明できれば絵なんて描く必要がない。

 

 マントルピースで囲われた秘密の入り口。ぐらりとずらせば、奥へずれ込んで、扉が開く。

 

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