第20話 黒装束



「むかし、江戸時代のことだけどね、」


「それはまた、随分と昔」


二玖は意識を集中した。できるだけ、自分のなかの江戸時代に。


「宗教画を踏ませてキリシタンを探しだす手段があった。この地域でもそういうことがあった」


この地域、と江戸時代、とさらに踏み絵。

何の縁もない、と二玖にはまだ思える。


「踏み絵、ですか」

「そう。江戸時代はキリスト教徒にとって苦難の時代だった。信仰が知られたら拷問にかけられる。眼の前の人物がキリシタンかそうでないか量るためにまず、絵を踏ませる。絵を踏めなかった人間がキリシタン」


「絵に描かれているのは…、マリア様とか、イエス=キリストですか」

「そう、信仰を持つ者にとっては大切な人たちだ」

 岬青年はうなずく。

 

「でもそういう手段、絵を踏ませる、というような手段を相手が取るならば‥‥、とキリシタンの側でも考えた。もう、絵を拝むのはやめよう。元々初めから絵を拝んでいなければ、聖母マリアやイエス=キリストの絵を見ても、それが崇拝する対象だと思わなくて済む」


「信仰の対象を変えた、ということ、ですか」


「初めは、きっと変えるつもりはなかっただろうね。最初に絵を捨てた人間はね。だってんだから。心の中でマリアやキリストの姿形を描くこともできただろう。でも問題はそれ以降だ。それ以降に信じる者は、信仰の初めから、そもそも見たことがないんだから思い描きようがない。与えられるのは額縁だけで、中身がないんだ。ここに大事な何かがあった、と思い込むしかない」


「額縁は…しるし」


「まあ、そんなところ。文字も絵もやめて、線で囲った。だいじなものの、そういう表現の仕方がこの辺りのごく一部で根強く残り、額縁自体に趣向を凝らす文化が栄えた、というわけ。装飾をほどこし、何もない内側に、何かがあったことを人に思い起させる。目印が何もなかったら、思い起こすことさえ忘れてしまう」


目印。

あの、マントルピースの上に掛かった額。あれもしるし。


「このお祭りだってそうだよ。元々はキリシタンだけの神聖な儀式をする日だった。けれど、キリシタン自体、ここにはもうほとんど存在していない。額縁市に一般の人々に参加してもらうことで、多くの人の心に残るようにしているってわけ」


 説明が、説明というには強すぎる、岬青年本人の思いや考えが込められていて、二玖はちょっと気後れした。


 踏み絵という言葉は二玖でも聞いたことがある。けれど、信仰を悟られないように、額縁だけを信仰する、という話しは初めて聞いた。

 そこまでして一心に信じるって、どうしてだろう。二玖はどちらかというと、信じるに至る人の心の方に興味が湧いていた。



 商店街の通りがぱっと途切れて、ひらけた視界は闇ではあったが、それでもすうっと夕凪が流れ込み、向こうに海を感じた。石垣の断片にふたり腰掛ける。


「僕はずっとこの辺りの人間なんだけど、君も?」


「いえ、わたしは中学生の頃にここへ引っ越してきたんです。それに学校は全部、市内の方で」


「道理で全く見覚えがないわけだ。僕は中学まではずっとここで、高校から、君と同じ美術科の三期生」


 二玖は九期生だから、岬青年とは六つ違いということだ。


「こないだ、十回目の創立記念日に、百年前、学校は海だったって話聞きました」

 市内一帯は、浅瀬の海だった。その一帯が埋め立てられて以降、農地となり、次第に繁華街に変わっていったと言っていた。実際、市内中心部に一戸建ての古い家はひとつもない。


「市の中心部がまだ海の底だった頃から、ここには暮らしがあったんだろうね」

「暮らし…」

 周りが海の底だった時代から暮らしが存在する、とは。

 二玖ははっとした。


「ここは島だったってことですか」


「そうだよ。二玖さんの家がある辺りが高台で、そこから下って海へ出る。江戸時代から続く干拓事業で少しずつ陸地が広がり、本州と繋がった。それまでここは地形的に閉鎖されていた。浅瀬には、大きな船が近づけない。住人は不便なこの土地の性質を逆手に取った。つまり、頻繁に人の来ない、情報の流れ出ない孤島である良さは、」


「隠れたら、見つからないこと、ですか」


 青年は深く頷いた。

「そういうこと。見つかったら拷問にかけられる。ここは、キリシタンの島だったんだ」


 遥か遠くから海鳴りが響く。


「そして僕の実家も、キリシタン信仰を受け継いでいる。どことも違う、独特の信仰を」


 黒装束がなびいた先の、岬青年の草履の足がすっくと地面を摑んでいる。


「キリシタン信仰は地域ごとに微妙に異なる。当然だ。絶対に見つかってはならない信仰なんだ。自分たちで守るものが、他のどこかで守っているものと同じかどうか確かめようがない。どちらも、守っている当人は存在すら否定するのだから。誰もが誰をも疑いつつ自分は違うと証明するために絵を踏ませ、絵を踏まなければならなかった」


「絵を踏んでいるのが自分の足なのか、」


「相手の足なのか、」

二玖は自分の足元に並ぶ、岬青年の足を見た。


「それが本当に絵なのか」

 地面にはひび割れたアスファルトの道路がある。


「疑えてくるんじゃないかな」

 青年はうつむいたまま続ける。


「そういう思いを抱いた誰かが、最初に絵を捨てたのかもしれない。島だったこの場所で、いつしか額縁が信仰の対象となった」

 そこまで話すと岬青年は立ち上がった。


「二玖さんにとって、こんな話しはただの歴史物語でしかないかもしれない。数年前までは、僕もそうだった。たとえ両親が熱心に念仏のようなものを唱えようと、毎週末近所の神棚に供えられた額縁を拝みに連れられて行こうと。自分は関係ないと思ってきた。僕からすれば額縁なんて、家の壁に立掛けられたただの木枠だった。木彫りの装飾がどんなに緻密に彫られていようと、枠のなかにあるのはただの壁だ。そこに何か神聖なものを感じるなんてばかげてる。そう、思い続けてきた」

青年は立ち上がり、再び歩きはじめる。



 商店街に入ると、露天を広げるいくつもの骨董商がひしめき合っていた。


「骨董を趣味とする人のあいだでは案外有名なんだ、この市。もとは、この商店街の人間だけで骨董商は十分足りていたんだけど、市自体、形骸化してしまってね。今日ここで店を出している人のうち、本当にここで商売している人間なんて、ごくわずかだ。ほら、商店街の入り口辺りのあの店」


 立て看板に「額屋」とあった。

「おばさん、見せてもらっていい?」


「ああ、ええよ」

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