第19話 岬青年
結局、額縁市にはひとりで行くことになった。
美雪は「夏季講習の最終日と重なるから」と、始めから行く気がなさそうだったし、母の方は、その広告を見るなり「他で間に合ってるから、遠慮しとくわ」と手元の縫い物に目を落としたまま言った。
八月十一日、居間に置いていた広告はいつの間にか片付けられ、どこに紛れ込んだのか、見失ってしまった。開催時刻は確か十八時半だった。
十六時半、二玖は、デイサービスの車を門まで迎えに行った。おばあちゃんが帰ってくるのだ。
病院では認知症の内服薬の処方と、介護保険の申請を進めていた。最近その介護度が出て、おばあちゃんは週5回、デイサービスを利用する事になった。小型バスに乗せられて行った先では、他の認知症患者と共に、お風呂、昼食、体操などをして過ごすという。
今は夏休みで二玖が昼間いるものの、長い目で見ればその選択は間違っていない、と二玖は母に力強く同意した。
実際、デイサービスに通い始めておばあちゃんの生活にはメリハリがついた。
朝夕は相変わらず、生垣の迷路を歩き続けているけれど。
バスから降りたおばあちゃんと一緒に、生垣の道を家まで帰る。
そしておばあちゃんに晩御飯を食べさせ薬を飲ませると家を出た。
日中よく晴れていたせいで、夜でもむっと熱気が立ちこめていたが、庭を抜けると、案外にまだ、外は明るかった。
「夜ってほどでもないや」
警戒心がすっと解けて、軽やかに坂道を下る。額縁市が開催されているのはこの坂を下って、ちょうど三重塔の辺りだ。横道に入ると、ある通りからぽつん、ぽつん、とぼんぼりが灯され始め、夜が深まり煌々と輝く。ぼんやり照らされた家々の玄関には、古びた
(どの家も、お正月からずっと飾りっぱなしなのかな)
もうお盆だというのに。
「キリノフクさん」
ふいに後ろから呼びかけられ、振り返ると、浴衣を着た若者が立っていた。
「ええっと…」
「岬ですよ。ほら、この間、学校で会ったでしょ」
記憶を探ったが、名前を聞くのは初めてだ。
「あの、アレクサンドリア図書館の…」
「そう。岬四郎です。霧野さんは、こんな夜更けにどちらへ?」
岬青年は手に、例の広告を数枚持っていた。
「額縁市っていうお祭りがあるらしくて、行ってみたいと思って。今、あなたが持ってる、その広告の、ですけど…」
彼は一枚を二玖に手渡すとにっこり笑った。
「それは奇遇だ。これから僕も行くところ。よかったら一緒にいかが?」
青年が街灯の元に立ち、初めて全体が見えると強い違和感を感じた。
「らしからぬ、」
「ラシカラヌ。何かのおまじない?」
「いえ、夏祭りらしからぬ。それ、浴衣じゃないですね」
「ああ、これですか。わたしは寺の人間だから」
「寺?」
「今日はこの地域の、といっても極限られた家の、宗教的な儀式の日でもあるんだ」
お寺、の儀式?頭のなかで質問の言葉が浮かんだが、話題が他へ移る。
目の不揃いな石垣がしばらく続き、道が次第に曲がりくねって、車一台もまともに通れないほど狭まり、周囲の家々の軒が迫る。直角に曲がるところで電信柱が視界を斜めに分断し、くぐるか
初めての道だった。けれど曲がったら、そこがどこかすぐにわかった。毎日通る駅前のさびれた商店街だ。
「この辺りって、営業してる店あるんですか」
閉まっているところしか見たことがないから何の店かもわからない。
「ほとんど潰れてる。というか、毎年今日だけ、やってる」
駅のすぐそばから小さな露天が並び、それぞれの明かりがそれぞれ違う色味の熱を帯びている。暑さのなかで、時折通り抜ける夜風がひんやり心地よい。
「元々この辺りは焼き物の産地で、昔は、焼き物に適した土が採れていたらしいんだ。いつの頃からか、原料となる土自体が採れなくなって、焼き物の文化は廃れてしまった。でも、当時の焼き物が、今度は骨董として価値を持ち始めた」
二玖は思わず口を挟んだ。
「うちの母も骨董屋なんです。うちの、奥の土蔵が店で」
岬青年は、意外だという表情で、
「へえ、それはどっちの店なんだろう」
と興味を示す。
「どっち?」
「ああ、ええっと、焼き物の器のたぐいを主に扱っていたところと、もうひとつ、別のルーツを持つ骨董屋があって」
「別のルーツ?」
「この辺りでは、昔から、額縁の需要が結構高いんだ。だから、額縁だけを扱う店がいくつかあった」
この祭の名前は額縁市というんだった。美雪からもらったチラシを思い出した。
二玖は尋ねる。
「ええと、そもそも、どうして額縁だけを?」
青年は少し間を置いた。聞き手である二玖に、聞き入れるだけの容量があるか、見極めるための間。
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