第17話 額縁市への招待


「二玖、このお祭り行ったことある?」


 二日目の補習の後、美雪はポケットから折り畳んだ紙を取り出した。

 二色刷りの地味な広告だった。


額縁市がくぶちいち


 大事でも何でもないしるしに、美雪はそれをしわしわのまま机に置いた。


「毎年お盆の頃にあるお祭りだって。二玖のうちの近くだよ。額縁市って、昔はほんとうに額縁だけ売ってたらしいんだけど今は実質、骨董市みたい。二玖のお母さん、骨董品屋さんだから、もう知ってるかもしれないけど」


 一年生の時、一度だけ美雪はうちへ来たことがある。友人が遊びに来ると言うと母は喜んで、駅まで美雪を迎えに行ってくれた。


 広告の、右下欄外の案内図は確かに、二玖のうちの近所を切り取っていた。


「二玖の地区じゃ、回覧板でこの祭りの告知が回ってるらしいよ」

「回覧板?」


 回覧板、というものがうちに回ってきたことなど、ないような気がした。

「そりゃあ、二玖のうち、うちがあるように見えないもんねえ」

 美雪は冗談で言ったけれど、案外そうかもしれない、と二玖には思えた。我が家はないことになっている。そうだ。



 二玖が、霧野の家に住むようになったのは母の離婚のすぐ後、中学入学の春だ。 それまで生活していた場所からぽん、と出て、母親の実家であるこの家に、暮らしだけが引っ越してきた。

 入学した中学も、この高校も、元居た地域の方に近かった。逆に、霧野の家の辺りに、二玖の友人知人はひとりもいない。最寄の駅まで歩いて行く道はいつも同じで、決まって通る同じ人間としか顔を合わさなかった。それがどこの誰かなんて、気にもしていない。

 

 この家の暮らしは、地域から隔絶している。

 もちろん生垣のせい、だ。


 夏休みの教室から出て、日陰を失くした開放廊下を二人で歩いた。


「もう去年のコンクールで、燃え尽きちゃったの?」


 美雪は、美術棟への渡り廊下突き当りに掛けられた、大きな油絵を遠目で見据えた。


「去年の夏の、あの絵」

 目立つところに飾らないでほしいと散々言ったのに渡り廊下に来るたびに目に入る。先生にとっては校長室とか来賓室などが「目立つ場所」だったのだろう。


「あれから二玖、殆ど描いてないよね」


 二玖は前を向いたまま返事をした。

「絵を描くのが楽しいかどうか、よくわからなくなったの」


 校庭の銀杏の、午前中は教室に落ちた木漏れ日が、今度はこの廊下にこぼれる。木は同じところに立ったまま、影はあらゆる場所で葉を散らす。──二玖は、もうこれ以上絵のことを考えたくなくてそんなことを思ってみる。上部の窓から差すひかりは、廊下全体をゆらめく葉陰で埋め尽くす。


 絵があるのは、廊下のずっと奥、ここからは額縁しか見えない。


 もっと日が傾いた、誰もいない日暮れの渡り廊下で、やっとあの絵に光が届くのかもしれない。光が当たるのが、誰もいない時間でよかった。安心する。真昼のまっすぐな光に、あの絵はきっと耐えられないから。

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