第12話 クロウ③ 【異国人】
雨が降っていた。
元宿坊に住まう霧野家の菜園専属使用人、木谷烏貴子はちょうど軒下に全ての干しカゴを入れたところだった。前日に、菜園で採れた大根で、切干大根を準備したばかりだった。
「じきに暖かくなる」
軒から次々落ちてくる雨粒を見つめながら、もうその雨が冬のものではなくなっていることを感じていた。
濡れた袖を振り払いながら近づく足音に気がついた。こちらへ向かっている春、ではなくて巨人。
菜園の敷地を突っ切って、見たこともない大男が傘も差さずに大股で歩いてくる。
「あれは一体、」
だだっ広い玄関土間に草履を脱ぎ散らかしそうになったのを整えて屋敷へ上がり、冷えきった床の底を掻き回すように烏貴子の尋常ならぬ声が響き、間もなく人が集まった。集まったといっても、霧野家の主人林蔵、妻の花子、そして、息子の林太郎の計三人だ。
その長身の異国人は片言の日本語で自己紹介をした。
まず、名前はベルネ。
フランスから来たこと。
それからここへ来た理由。ここを、知っている、ここに自分の先祖は暮らしたことがある、それを確かめたい。そう言って譲らなかった。彼はどうやらそれらの日本語を事前に練習してきていた。
その証拠に、他の日本語を何ひとつ知らなかった。
根負けした霧野家の主、林蔵は、ベルネを居候させてやることにした。
ベルネは、菜園管理人木谷烏貴子の指揮のもと、元宿坊菜園の、広大な庭を手入れする役回りを命じられた。農業は力が勝負だから、若い丈夫な男手はありがたかった。
ベルネに日本語を教えるのは主に林太郎だった。
母国から持ち込んだ仏和辞書を、ベルネは飾りのように書棚に並べたまま、結局使わず終いだった。
つまりべルネは交流を楽しんだ。音があるのは辞書の中ではなく人のそばだった。
林太郎は遊びのように言葉を教えた。
「う、き、こ、は、漢字で書くと烏、貴、子。カラス、高貴なカラス。英語だと、クロウ。ノーブル・クロウだ」
英語のできる林太郎がまず、こうして教える。ベルネも英語をかろうじて使えたから、英語を通じて日本語を理解した。
「クロウ。ウィ、ジェ コンプリ.カラス。クロウ。ル コフボウ」
こんな調子で、英語も日本語もフランス語も混ぜこぜのベルネの言葉はしかし、いつの間にか日本語に変わっていった。
日本へ来たとき、ベルネは二十歳だった。
林太郎が十四、烏貴子が十三。
烏貴子にとっては兄がもうひとりできたようなものだった。
ベルネは烏貴子を「クロウ」と呼んだ。
烏貴子は「クロウ」が、例えカラスだとしても、何だかとてもいい気分だった。
黒い羅紗のドレスと、頭には黒い羽飾り。妖艶なお嬢様になったよう。
土に触れない日のない、地味な毎日。けれど、クロウ、と呼ばれると、現実から離れられた。
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