第10話 世界五分前成立説


「補習って全員?」


 三年二組の教室には、休み前と変わらない光景があった。 

 隣の席の美雪は黙々とノートをとっている。

「あ、うん全員」

 やっと上げた美雪の顔が妙にさっぱりとしている。

「髪、切った?」

「うん。夏休み、だし」

 言ってすぐ、現状に矛盾を感じて気まずそうに美雪は付け足した。

「初日から学校に来てるけど」


 世界史は一年生当初から授業の進度が危惧されていた。ジュラ紀も白亜紀もないことにして人類誕生で始まったのだから、その後も潔く省略するのかと思えば時代を遡ったり留まったりで少しも前へ進まない。


「残りの歴史ってどれくらいあるんだろう」

 美雪がふとつぶやく。

「どれくらい」

 二玖もつぶやいてみる。そうすれば一応考えていることになって、実際本当に考え始めることになるものだ。


 ──残りの歴史、は今も少しずつ増えているから、一定以上のスピードで勉強しないと今に追いつけない。確かなのは、この授業のスピードは「一定以下」ということだ。

 美雪の方は考えるのをやめたのか忙しそうにノートの新しい頁をめくる。


 黒板を見ると先生は『古代図書館』と書いたところだった。


「図書館で歴史は変えられるのです」


 校庭の、大きな銀杏の木陰が机にちらちらと落ちていた。銀杏は一億年以上前から地球上に存在していたって聞いたことある。

 ──あれは、『今』に追いつく必要性なんて、全くなさそうだ。


 黒板には上手とはいえない先生の文字で、『学術都市アレクサンドリア』と書き加えられた。今日はしばらく古代エジプトらしい。


「紀元前三百年くらい、今から二千三百年くらい前のことですけど、エジプトに、プトレマイオス朝という王朝が生まれました。最初の統治者はプトレマイオス一世です。彼はアレクサンドロス大王の後継者としてエジプトの地を治めました」


一気に未知のカタカナが三つ四つ出てきたことで、教室の空気がどんよりと曇るのがわかる。同じ空間にいる先生もきっと少し呼吸がし辛くなったはずなのに、全く動じることなく独走する。


「彼は文化を大事にしました。都市をつくる上で商業や行政の中心地にするだけでなく文化の中枢にもしたかった。学問や芸術を大事にする都市には、自然と優秀な研究者が集まる。そうすれば国に技術や知識は集められ、強くなる。そう考えて、アレクサンドリアという都市には、王立図書館と、学問研究所が創設されました」


「そこで秀でた研究をする者には、王家が費用を負担して、膨大な蔵書に囲まれた生活を保障し、税金その他すべての面で優遇しました。すると新しい知識を記した書物が研究者によって書かれます。その書物を読むために、さらに外国から優秀な学者が集まってくる。図書館の蔵書は豊かになり、研究も盛んになる。たちまちアレクサンドリア図書館は数学、医学、天文学、そのほかあらゆる学問の中枢となります」


 あれくさんどりあ。アレクサンドリア図書館。言ってた。女が。


 一気に眠気が覚めた。顔を上げると黒板は無秩序としか思えないカタカナで埋め尽くされていた。


「今のように借りるばかりじゃ、図書館は許してくれなかったわけです。借りたいならまずは本を納めなさい、というわけです」


 銀杏の木陰はいつのまにか二玖の机から落ちていた。

 時計の針は三時間目の終わりを示し、教室にふっと柔らかい空気が舞い込んだ。

 それを合図にチャイムが鳴って、先生は教壇から降りる。


「一歩も進まなかったねえ」


 先生の、見飽きた縞のワイシャツの背中を見送って、美雪は言った。

「その割りに美雪のノート、結構はかどってる」

 机の上には消しゴムのカスが散らばっていた。

「時間もったいないから英語してたんだ」

 手早く荷物をまとめると美雪は立ち上がった。

「これから夏季講習。じゃあね、また。デッサン室で」


 デッサン室、という言葉が強調されたように感じた。確かに、長いことあそこでは美雪と顔を合わせていない。

 デッサン室のある渡り廊下の向こう側には音楽室もあって、合唱部が練習に励んでいる。春からずっと聞こえている、「翼をください」は、まだちゃんと聞いたことはない。だって春からは、一度もデッサン室へ顔を出していないから。 


 でも、ちゃんと聞かなくたって、この歌はよく知っている。


 いま わたしの ねがいごとが 

 かなうならば つばさが ほしい

 

 他の生徒に紛れて教室を出て行く美雪の後姿を見届けて、二玖はやっと帰る支度を始めた。三年目にしては折り目一つない世界史の教科書をかばんに仕舞おうとして、ふと、索引頁でアレクサンドリア図書館を探す。

 アレクサンドリア、アレクサンドル一世、アレクサンドル二世、アレクサンドロス大王。

「図書館、は?」

教科書の「アレクサンドリア」の載っている頁にはひとこと、首都アレクサンドリアはおおいに繁栄した、とあるだけだ。


「知りたいの?」

教室の入り口にひょろりと背の高い青年が立っていた。白いTシャツに色褪せた黒のだぼっとしたズボン。背中には深緑色のリュックサック。

「不法侵入じゃないよ。関係者以外立ち入り禁止ってあったけど、関係者。ここの美術部の卒業生。遊びに来てみたんだ。僕も三年二組だった」


 彼は中途半端に消された黒板の文字跡を追っていた。坊主頭に日焼けした首筋がやけにほっそりと品がいい。

「アレクサンドリア図書館。懐かしいなあ」

「行ったこと、あるんですか」


 教科書にも載っていない、きっと観光地にもなっていない人知れぬ遺跡。

 彼は嬉しそうに笑った。

「うん、古代文明に興味があって。大学一年の夏にエジプトを放浪した」

 大学一年が彼にとってつい最近なのか、遠い過去なのかよくわからないが,今からでも平気で放浪しそうな雰囲気はあった。

「図書館、どんな感じでしたか」

 彼は二玖の質問にふふ、と微笑む。

「それが、建物も、収められていた本も全てなくなっている。図書館が存在したという記述が、いくつかの古い文献にあるだけだ。しかもそれぞれ、内容が食い違っている」


 じゃあこの人はどこへ行ったというのだろう。


「でも、在ったってことは確かなんですね」

「さあ、どうだろう。もしかしたら全部嘘の記述かも。嘘をつく理由を今度は探さなきゃならなくなるけど」


 教室に生暖かい熱風が通り抜ける。恐らく今日も夏日が更新されるだろう。


「世界五分前成立説って知ってる?世界は五分前にできあがり今ここにあるっていう仮説」

「強引ですね」


「その説が本当に言いたいことはこうだ。この仮説を否定するなら証明してみろ」


 突然の命令形に二玖は思わず青年を凝視した。青年はふっと表情を緩める。

「古くから伝わることのどれを信じて、どれを嘘だというか。嘘だと証明できるものだけが嘘なんだ」


「そんなものですかね」


「絵は、誰かに描かされているの」

唐突に聞かれて意味がわからなかった。


「絵、ですか」


「キリノさん、美術部でしょう。さっき絵を見せてもらったんだ」


「翼をください」が延々繰り返される。真夏の校舎で。オウルのなかで。


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