第9話  時の渦のなかの彼女


「ごめんください」


 玄関先に若い女性が立っていた。

 格子の引き違い戸を透かし、影が土間に落ちている。店と家を間違える客は後を絶たない。戸を開けると案の定、生垣の中で迷ったお客だった。白い麻のブラウスと紺のふわりとしたスカートが夏らしかった。長い長い髪はゆったりとひとつにまとめてある。


「あいにく今日は休みなんです」


 二玖は、母の出店の場所を知らなかった。本店である蔵は閉まっている。休みと伝えて間違いではない。


「じつは本を探しているの。ふるーいふるい、フランス語の辞書なの」


「はあ、フランス語。多分扱っていないんじゃあないかと」


 妙にゆったりした話し方が余計に二玖を急かした。すでに朝をこなし、現在進行形の女性の余裕が、二玖のぼやけた朝を際立たせる。よれたTシャツに短パン姿の自分をどこかにやってしまいたい気分だ。

「せんじつ、わたしの通う大学祭にこのお店がきていたの。骨董品以外にほんがすこおし、あって」

 すこおし、ほん。ほん、ああ、本。

 残念そうにはにかむ彼女に木漏れ日がゆらめく。

「フランス語っていうと時制につまずいているんですか」

 思わず尋ねた。この人、『進行形』は『進行形』でも、前進、じゃない感じ。

「時制につまずいてるって、どうしてわかるの」

 女性は顔を上げる。

「心ここにあらず、というか」

「ここに、在らず?」

 ここではない、とすれば。二玖は時間軸の反対側を指さした。

「過去、じゃないでしょうか」

「過去に在る、と?」

 女性は初めてはっきりと視線を合わせた。

「現在っていうのがいつまでなのか、未来っていうのがいつからなのか。過去が終わるのはいつなのか」

 なんとか言葉にすると女性は頬を伝う汗をハンカチで押さえ、クスリと笑った。

「だいたい見た目が暗いでしょう、わたし」

「いえ、そんなこと」

「いいのよ。ほんとのことだから。色は青白いし髪は真っ黒で多いし。目も鼻もどこにあるかわからないし。あ、ひがんでるわけじゃないの。むしろ結構気に入ってる」

 彼女は髪の束を手にとるとじっと見つめた。


「わたしね、過去を過ぎ去った時間だとは思えなくて。ある時点があって、例えばあれから二年経っているんだ、って客観的に線グラフでも書けば解るのよ。左から右に矢印書けばね」


 二玖は無言だったが、そのグラフ上の糸に絡まれつつあることに危機を感じる。


「でもね、そもそもどうして時間って左から右に流れるの?」

「下から上でも構わないですよ」

「わたしの中では渦を巻いているの」

「時間が?」

「そう、同じところで」

「じゃあ、重なっちゃうわけですか」

「そうね。どれもいつも同じところでぐるぐる。『もう忘れなさい』、だとか『前を見て』、とか言われると混乱するの。わたしにとっては目の前にも過去はあって、忘れるような対象ではないわ。だってそこにあるんだから。いつだって過去に包まれてる」

「何か、心に傷があるとか」

「トラウマ?」

「それです、トラウマ」


 女性はしばらく考えて、トラウマの綴りを教えてほしいとペンを出した。綴り、綴り。二玖は玄関に常備してあるメモ用紙を一枚千切り差し出す。


「こう、ですかね」

「いえ、きっとこう、だわ」

「知ってるんじゃないですか」

「おそらくね」

 二玖は笑うべきか腹を立てるべきか迷い、黙った。

「想定未来、推奨未来、想定外未来、それから半過去、未完成過去、創造過去…、フランス語を学び始めて、これだって思ったわ。過去は現在にも未来にも、少しずつ含まれて現在や未来の意味を変えてる。過去なくして今も未来も在りえない」


 うつむいて考え始めた彼女の頭髪は益々黒く、厚みと艶が相まって髪の毛というより一枚の毛織物を巻きつけたようだった。見慣れるとなかなか悪くない。


「いいと思いますよ。真っ黒も」

「髪の毛って時間なの。わたしをあらわすじかん」


 束ねていた手を解くとこんどは絹糸みたいにさらりと散らばった。

 女性は戸に手を掛け、何か思い出したように振り返った。


「ここのお庭、すてきね。迷っているうちに髪の毛が少し伸びたよう。また、開店してるときに伺います。ありがと」


 スカートの裾が閉じる戸の隙間にするりと消えた。

 その時家の電話が鳴り響いた。


「霧野二玖さんのお宅でしょうか。あ、もしもし、霧野さん?ご本人ね。補習の日程、伝えていませんでしたか」


 次に聞くのは一ヶ月以上先だったはずの、担任教師の声だった。

「本日から世界史の補習が始まります」


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