第8話 緑の匂い
「オウル、起きてる?」
朝。
母さんがドアを開けた。
「起きなさい。今日は出張だから、もう母さん行くよ。これ以上起こしてあげられないよ」
骨董品屋は時々出張する。
青空市や地域のお祭りがあると、どさくさに紛れて小さなテントで店を出す。
母曰く、
(起きなきゃ)
昨晩、夜中に庭に立っていた。
どうやってそこまで行ったか憶えていない。
けれど見た夢は詳細に憶えていた。実のところ夢とは思っていない。現実と繋がった記憶として二玖は認識していた。スケッチブックを持って歩いた地中のトンネルのような細い廊下。あれはあの部屋から、現実から、確かに繋がっていた。
「ねえ、オウル。今日から夏休みでしょう?草抜き、だいぶ伸びてきたからお願いできる?」
さりげなく言いながら身支度を終えた母が、扉を開け放し廊下を駆けていく。
風圧でカーテンが膨らみ湿気を含んだ緑の匂いが部屋中を駆け巡る。
母は二玖の夏休みが「高校最後の夏休み」ということを知らないんじゃないか。
娘の、貴重な時間を費やすものが庭木の剪定や草抜きでいいのだろうか。
布団の中で母を見送り、もう一度目覚めたらじーじーと蝉が鳴いていた。
一階の軒は周囲に立ちはだかる木々よりも低い。生垣は家のすぐそばにも整列している。窓に届く光はいつでも緑がかっていて薄暗く、雨の日には日中でも電灯を
のろのろと起き上がりカーテンを開けた。
緑の壁はいつもそこに在る。
「守る。というより、障害だよ」
店には特に厳選した物を陳列する、というのは恐らくこの生垣の迷路による事情もあるはずだ。商品を運び入れる時は細く入り組んだ通路を、台車を押して延々歩く。自転車やバイクでは、通れたとしてもカーブや曲がり角が在りすぎて歩くより遅いんじゃないか。
母に、昔の庭の様子について尋ねたことがある。
「母さんが子供の頃から生垣に囲まれてたの?」
改めて考えてみると。と母は訝しがった。
「うちの庭だっていう意識があんまりなかったのよね」
もしうちを出たらそこが庭なのだとすれば、庭は通り抜けるもので、立ち止まって眺めるものではなかった、と母は主張した。
「木はたくさん植わっていたわよ。今と同じよ。それがだんだん閉塞的になっていったわ。今思えば単に木が成長したということね。丈を伸ばし、枝葉を広げて陰を大きく大きくしたの。わたしも成長したけれど木にはかなわない。一刻も早く通り抜けたかった」
娘はうなずく。
「うんうん、前にいくか、後ろに戻るかしかない。わたしも時々怖くなる」
母もうなずく。
「進むのも戻るのも、怖いの」
日々庭を整えていたのは二年前に亡くなった、美樹の父で二玖の祖父である、霧野林太郎だった。その頃、生垣のサイズは一定に刈り揃えられ、通路は常に掃き清められた。けれどそれも祖父が健在だった頃のこと。
知らぬ間に、生垣はむくむくと膨らみ一段と鮮やかな柔らかい葉っぱを量産した。知らぬ間に、膨らみは「壁」を逸脱し、「境界線」だったものが「内側」を持ち始める。
どこからかまた、蝉の声が聞こえる。
すぐ近くにも、遠くにも。
見えるのは灰色の硬い石畳と、個性のない隊列を組む木々の緑。
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