第4話
しばらく歩いていると、あたりが森のように鬱蒼とした雰囲気になり、薄暗く肌寒くなっていく。ここは土の道を挟むようにして綺麗に木々が生えそろい、硬い土は僕の足の裏をちくりと刺していった。
色とりどりの小鳥の歌声がこだまするなか、ふと見上げると蝶々が空を舞っていた。
空のように青い羽を羽ばたかせ、僕のまわりを飛んでいた。
さらに足を進めていくと、公園のような広場に出た。そこにはぽつり、ぽつりと錆びたベンチが置いてある。
その中に、今にも潰れてしまいそうなボロ屋が建っていた。木製でできた建物は家というにはほど遠く、まるで作業場のような形をしていた。
古びた扉を押すと、ぎいっと重く掠れた音を出す。扉の隙間からは埃っぽく砂のような匂いに鼻がむずむずした。
それと同時に嗅いだことのある鉄錆のような匂いも鼻をかすめた
と同時に、僕はすばやく鼻を塞いだ。
腐った臓物と、吐き気がするほどの血の匂いがこの部屋の中で渦を巻いている。
そして、ざわざわと何かが蠢く音が響いていた。僕は鼻を押さえながら、重い扉を開けようと力を込める。
するとその扉に触っていた指先が、何故かちくりと痒くなる。
見ると僕の指先には、三匹の幼虫みたいな丸々と太った白い虫がちりぢりと動いていた。扉の隙間から部屋をのぞくと、赤黒く光る液体の中を数え切れないほどの白い虫が蠢いている。
それは扉の隙間から聞こえた音だった。
喉の奥でひゅっと悲鳴が起こりそうになったとき、誰かが僕の口を塞いだ。身動きできない僕は、目だけを動かして背後を見る。
すると、たぶん僕よりひとまわりほど年上の背の高い男が僕の口
を塞いでいた。腕を上げ振り払おうとすると、さらに力を込められる。
「騒ぐな」
長身の男は、僕の耳元で囁いた。
僕は再び目だけを動かした。上へ下へと目玉を上下させると、男かと思っていたら、やたらひらひらとした服を着ているのがわかった。
僕の頬をかすめる栗色のふわりとした髪は、まるで女の子のようだ。
それでも背中から伝わるがっしりとした身体つきと、首元をなぞる熱い息づかいは男のそれだった。
ちりちりと音がする。
木製の古びた扉の裂け目から、虫がからだを蠢かせ、這い出ようとして地面にぼとぼと落ちていく音が聞こえた。
それは僕たちの足の指の間をつたい、どこかへといってしまう。
背後にいる男が僕の口を塞いだまま、きいっと扉を開けた。
嫌な匂いに目が霞む。僕の目に涙が滲んだ。
薄暗いその中は、赤茶色に血で汚れ、水たまりがところどころ出来ている。その血だまりの中は、肉のようなものが浮いていた。
赤い水たまりに浸かるように置かれた小さなテーブルは、腐りかけの果物がカゴの中に入っている。カビの生えた食べかけのパンに、群がる幼虫を丸く太った小鳥がついばんでいた。
薄暗い部屋の中、光がさす方に目を向ければ、この部屋に一つだけある小さな窓辺に、小さく背を丸めて作業机にむかう、もぞもぞと動くものが見えた。
その時唇を塞いでいた大きな手が退かれ、僕は小さく息を吐き出す。
「お前、スティーブンか? ココが話していた」
ようやく僕を解放した、ひらひらの服を着た男が小声で話しかけた。
「うん、そうだよ。きみは?」
「俺はミシェルだ、そこにいるエドに会いに来た」
そう言われて、暗がりにいる何かに目をやると、ココと一緒にいたあの小さな薄汚い子犬によく似ていた。
「エドなら知っているよ、ココと一緒にいたんだ。ペティにもあったよ、とっても可愛かった」
そう言うと、ミシェルは「そうか」とにやりと笑った。
「ねえ、ミシェル」
「なんだ」
「その服似合ってないね、変だよ」
ミシェルは驚いたように、グリーンの瞳を僕に向ける。
そして無言で僕の頭を小突いた。頭から伝わる優しさを帯びた拳に、僕の肌はぞわりと波打つ。
怒りを向けてこないその手が不思議で、僕は思わずその手を取りまじまじと見つめてしまった。
ミシェルはそんな僕に、何も言わずその手を握る。
何故か嬉しそうなその顔が、僕には理解できなかった。
その繋いだ手を引いて、ミシェルは僕をこの家の中へと導いた。
汚い床につまずきながら、薄暗い部屋を歩く。ミシェルが窓辺に近づき、エドの肩をポンと叩いた。
「エド、おいで。ご飯にしよう」
「…あ、ああ。ミシェル来ていたんだね、気づかなかった」
「だろうな」
「す、少し待ってね、この子たちが先だから」
そう言ってエドは、手にしたピンセットであたりに蠢く虫をつまみ、窓辺に降りたつ小鳥たちにあげていた。
ころころと太った虫が、鋭いくちばしで突かれていく。エドは楽しいのか、唇の端を吊り上げ笑っていた。
その間に、ミシェルは汚れた机の上に乗っていたものを全て床に落とし、まだ数匹残っている虫たちも手で払っていく。べちゃべちゃと血の跳ねる音が響いた。
暇を持て余した僕は、電気もつけずに暗いままの部屋を見渡した。不意に後ろを振り返ったとき、見覚えのある顔と目があった。
女のような顔立ちの男が、裸にされ十字に縛られている。その体は殴られたかのように痣だらけで、縄がまかれた首はいびつな方向へ折られていた。
その男は背中の皮を剥がされて、金具を取り付けられていた。目で辿ると、ピンと張られた糸が天井まで伸びて、広げられた背中の皮がよく見えるようになっている。
まるで蝶々のような姿に僕はため息が出た。
後ろに回ると、吊り上げられた青白い肌とは逆に、真っ赤に染まった肌の下が剥き出しになっている。
歪に折り曲げられた彼の首がこちらを向く。
彼は血に濡れた羽を広げ、グリーンの瞳で僕を見ていた。
「ココ?」
僕が呼ぶと、一瞬だけ吊るされた男の唇が、にやりと歪んだように見えた。
「ミシェル、ココがいるよ」
そう言うと、ミシェルは少しのあいだ手を止めて僕を見た。そしてお皿やジャムの入った瓶を机に並べた。
「ねえミシェル、誰がやったの?」
ミシェルは持ってきた籠に入れてあるパンに、苺のジャムをぬりながら「嫌なやつ」と吐き捨てるように答えた。
「そ、うだね。とっても嫌なやつだよ」
ようやく窓際からこちらに移動してきたエドが、何かを舌で転がしながらもごもごと答えて席につく。
椅子に座ったエドは、服も薄汚れていて血生臭かった。そのひどい匂いに、僕は顔をしかめた。
僕たちはテーブルを囲んで、それぞれ思い思いに手を動かした。
ミシェルはエドのお皿にジャムをぬったパンを置き、エドは小さなナイフで、オレンジの皮をざくざく切って剥いていく。
そんな二人を見て「よくこんなところでご飯が食べられるね」と僕は言った。
二人は僕を無視して手を動かし続けた。
血や煤にまみれた薄汚れた壁に、肉の破片が浮いた血だまりの床。それに群がる無数に蠢く虫たちが、僕たちを囲んでいる。
僕が紐で繋がれていたトイレのほうが、よっぽど清潔だと僕は思った。
食欲なんてわくはずもない僕は、切り剥かれたオレンジの皮をひょいとつかみ,テーブルの上に重ねていった。
そのあいだも、エドの口元はもごもごと動いていた。
「なに食べているの、エド」
僕が首を傾けると、エドの灰色の目玉が僕を見る。
そしてにやりと唇の端をつり上げて、少しだけ開かれた口に短い指を指した。
テーブルに乗り上げるようにして、僕はその中をのぞき込む。ガタガタと軋むテーブルをミシェルは肘で支えた。
エドの開かれた口の中にあったものは、ころりと転がるチョコレートのようだった。
「それは何? チョコレート?」
僕がそう言うと、エドはべぇと舌を出した。舌の上にはころりと茶色い何かが乗っていた。エドはそれを、ごくりと音を出してのみこんだ。
そして肩を揺らし、くっくと笑って目を細めた。
「耳だよ、い・・・嫌な奴の耳。ぼ、僕が噛みちぎったんだ! ココに、ココにあんなひどいことを、したから!」
興奮したようにエドはキイキイと叫ぶ。耳障りな甲高い声に、僕は耳の中に指を突っ込んだ。
「うるさいなぁ、喚かないでよ! ちゃんと喋れないの? エド」
びくりと肩を震わせるエドに、僕は舌を打った。
すると隣に座っているミシェルに、耳を力強く抓り上げられた。急な痛みに声を上げて顔をしかめる。
僕を睨みつけるミシェルはとても怒っているようだ。
「お、怒らないで、ミシェル。スティーブンは、きっと悪いやつじゃないよ、チビで…吃りの僕を馬鹿にするんだ。それは当たり前の、ことなんだよ」
エドがそう言うと、ミシェルは僕の耳を解放する。僕は赤く腫れた耳を手で押さえた。
その時、破れた短いカーテンが風に吹かれて揺れた。その隙間を一匹の蝶が、その風とともに舞い込んできた。
僕はそれを目で追った。窓辺から舞い降りた蝶は、吊るされたココの足にふわりととまる。綺麗な青い羽がゆらゆらと揺れていた。
もっとよく見ようと僕は席を立った。二人は何も言わずに僕を見つめている。
蝶は吊るされたココの、太ももあたりに止まった。体を屈ませ目を近づけると、蝶は小刻みに揺れて細長い舌を動かしている。
それは花の蜜を吸うようにココの血を啜っていた。
気づくとココの体には複数の蝶がとまっていた。足先からポタポタと、水滴のようにココの背中から血が流れ落ちる。
その下の血だまりで、蝶が羽を休ませ血を啜っていた。
「エドは、ここで何しているの?」
僕を見守っていたエドは、ふふと頬を緩ませる。
「ココを、つくっているんだよ」
そう言い軋んだ音を響かせ席を立つエドは、部屋の隅に置かれた古いクローゼットの前に立つ。
ギイと扉を開けると、赤く濡れた人の塊が姿を現した。見覚えのあるそれは、空から降ってきたものたちだった。
クローゼットにしまわれていた死体たちは、水しぶきをあげながら、グニャリと体を歪ませ力なく床に倒れていく。
エドは折り重なるように倒れた死体たちの顔や腕、足小さな手でぺちぺちと触っていく。
「こ、これは腕がココに似ている、これは、耳だ。形が、そっくりだ」
ぶつぶつ言いながら、エドはココに似ている部位を探しているようだった。そして作業台の上まで、ずるずると引きずりその腕を乗せた。
エドは壁に立て掛けてあったノコギリを手にする。
「も、もうすぐ、ココができるよ。そしたらまた、ココと、一緒に…ずっと…一緒に」
エドはうわ言のように、同じ言葉を繰り返す。
作業台の上に置かれた腕に、鈍く光る刃を食い込ませた。刃が動き、肉を断つ音がしだいに重くなり、ごりごりと骨を削る音に変わる。刃が揺れるたびに、水のような血飛沫があたりに飛び散った。
その時、聞こえてくるはずもない、まるで幼い少女のような笑い声がこの部屋に響いた。どこからだろうと、あたりを見渡すと、それは空になったクローゼットの方から聞こえてきた音だった。
扉の隙間を覗くと、一人の人形が転がっていた。ふわりとした栗色の長い髪がとても綺麗だ。
手に取ると、グリーンの瞳がきらりと光った。なんだかミシェルによく似ている。
それを手に持ったまま振り返ると、ミシェルは人形のように顔を強張らせ、首を傾けて僕を見つめていた。
さらにうふふと大きくなった声で、その人形は笑っている。エドは全く気づいていないのか、その手を止めなかった。
つなぎ合わせても動くはずもない肉の塊を、エドはココと呼んでいる。
この愉快な笑い声の主は、それが可笑しくてたまらないのだ。
エドを見つめ椅子に座っているミシェルは、静かに僕を手招きした。
「おいでスティーブン、嫌なやつに会わせてあげる」
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